小説の書かれる時(後編)
「真珠湾を忘れるな?」
ということを、アメリカ議会の前で言っておいて、今度は日本政府の前井その面を出した時、全員が行った、
「スタンディングオベーション」
それこそ、
「ナチスの再来だった」
と言ってもいいのではないだろうか?
敵国と称される国の、世界的に侵略者と言われかねない大統領の言っていた。その男に対しての評価として、
「やつはヒトラーだ。ナチスの再来だ」
と言っていたことも、まんざら嘘ではないと思えてきて、そんな
「ナチスの再来」
に対して金や援助物資だけではなく、武器弾薬まで与えようとしている日本という国は、
「平和憲法」
という存在を忘れてしまったかのようである。
「そんな政府の暴走を、今の国民は許しているのである」
といえるのではないだろうか。
今の政府はいいとして、当時の、
「社会派探偵小説」
と言われる時代は、そんな政治的、あるいは、会社などの組織という中で繰り広げられる犯罪がテーマだったのだ。
個人的な怨恨であったり、犯罪者の変質的な心の歪みなどというものだけではなく、時代が、形づけられていくと、そこには、
「組織としての思惑」
であったり、
「個人間における、それぞれの都合などが、絡み合ってくる」
ということになると、そこから、
「犯罪というものが形成されてくるのであった」
そのためには、
「組織の暗躍には、それぞれの人間の都合ということを調査するということになるのであれば、そこは、諜報部隊の存在が、不可欠になるのではないだろうか?」
戦時中であれば、
「軍内部で、暗躍を行う場合に、庶民たちを買収したりすることも多かっただろう」
特に、当時の満州というところは、都会部分というのは、まるで、
「東洋のパリ」
とまで言われるような、大都市で、
「ホテルや、百貨店などが、軒を連ねる」
というところであった。
しかし、ちょっと裏に入ると、その内容はひどいもので、
「完全に貧富の差が激しかったのだ」
だから、日本人に、
「満州は、この世の極楽だ。開発し放題で、すればするほど、自分たちの利益になる」
と言って、移住させ、働かせることで、
「日本の食料問題」
と、
「軍における、武器弾薬、さらには燃料問題を一気に解決しよう」
という、
「一石二鳥」
という考えを持っていたのだった。
ある程度までは成功だったかも知れないが、失念していたのは、
「満州という土地がそこまでいいとことではなかった」
ということであった。
資源は出てもそんなにいい資源ではない。自給自足しようにも、冬場は、極寒の土地ということで、
「農作物は絶望的だった」
と言ってもいいだろう。
それを考えると、
「満州国の統治としては、戦略的な地理的意味における利点しかない」
と言ってもいいだろう。
そのために、中国に介入し、さらに、経済制裁を受けたことで、南方資源に手を出さなければいけなくなったのであれば、
「満州国」
というものは、傀儡国家を作ってまで、必要だったというのだろうか?
ということになるのだろうか?
それが、日本の命取りだったのかも知れない。
時代背景において、戦後の、
「建設ラッシュ」
において、なかなか、
「それまでの探偵小説」
という概念の話は、
「トリックが出尽くしていての、バリエーションの問題」
ということと、
「変格派」
としても、耽美主義であったり、猟奇殺人などというものが、なかなか題材として描いても、
「現実味に欠ける」
などという点から考えても、うまく描けるわけではない。
それを考えると、
「それまでの小説ではいけない」
ということになるであろう。
それを思うと、話として展開できるものとして考えられるのは、前述の、
「社会派探偵小説」
ということになる。
そうなると、小説の展開としては、本格派のようなトリックも、変格派のような、犯罪方法も使えないということになると、
「本格派というのは、謎解きという、ラストにおける意外性という意味での、爽快さが主の内容」
ということであり、
「変格派というのは、今度は、殺害方法であったり、全体的な雰囲気がおどろおどろしいものだと考えると、前半で見られることが大きな内容となるのである」
ということを考えると、
「本格派というのは、そのまま、ミステリーと呼ばれる小説の流れとなり、推理小説という形」
で言われるようになり、
「変格派というのは、ドロドロした雰囲気で描かれるものとして、それこそ、探偵小説の主流から離れていき、
「恐怖小説」
であったり、
「都市伝説」
などと言った話を主流と考えると、その派生型は、
「ホラー」
あるいは、
「オカルト小説」
と呼ばれるものとなってくるのだろう。
変格派と呼ばれるものは、その派生を広げると、
「SF小説をも、凌駕する形」
ということになり、そもそも、本格派、変格派ということで分けた時に出てきた発想として、
「本格派探偵小説」
というものを、本筋と考え、
「それ以外の小説を、変格派探偵小説と呼ぶ」
ということだと考えれば、この、
「枝分かれ」
というのは、的を得ていると言ってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「探偵小説というものは、今に至る、いろいろなエンターテイメント作品の原点のようなものではないか?」
と言ってもいいだろう。
ただ、実際の事件と、小説とでは、同じように行くわけもなく、
「いかに、うまく描けるかということが、小説の肝になるということになるかということである」
といえるだろう。
「社会派小説に、ヒューマンドラマが重なっていく」
というのも、実に自然なことではないだろうか?
社会組織と、個人の戦いなど、これも一つの、エンターテイメントだからである。
佐久間がデスマスクを受けとってから、半月ほどが経ってからだろうか? 一人の被害者が見つかった。
その男は、佐久間が殺してほしかった、そもそもの借用証書を持っている会社の社長だという。
その犯人は意外にも見つかったという。
その男も、借金を抱えていて、
「殺さなければ、俺が自殺しないといけなくなる」
ということで、切羽詰まっての犯行だったという。
その犯行は、結構計画されたものということを、最初に警察は言っていたわりに、出てきた犯人からすれば、
「行き当たりばったりの犯行」
という様相を呈していた。
しかし、犯行の手口は、あくまでも、彼を示していて、証拠も何もかもが、
「その男を犯人だ」
と指示している。
さらに、この男は、
「犯人が持って行った借用書の中でも、特記するような金額でもないし、返済期間が、切羽詰まっているわけではない」
それなのに、
「なぜ犯行を犯さなければいけなかったのか?」
ということが分かっていないようだった。
よくよく考えてみると、
「この男が犯行を犯した場合に、一番分かりやすく、情状酌量の余地のようなものがあり、さらに、警察では分からないが、この男から探ってみても、決して、佐久間に辿り着くことはない」
という相手がわざわざ選ばれていたのだった。
作品名:小説の書かれる時(後編) 作家名:森本晃次