小説の書かれる時(後編)
ただ、時代が流れてくるにつれ、昔のような、
「私立探偵」
と呼ばれる職業は、次第に衰退していったのだろうか。
いや、自分たちはそんな時代に生きていないので、
「私立探偵」
と呼ばれるようなものが、そんなにたくさんあったのか?」
ということが分からないということだった。
そういう意味で、探偵というものをどのように考えるのかというと、警察は、結構、探偵小説のような話を、
「探偵小説じゃあるまいし」
ということで、
「小説は小説、事件は事件」
ということで、まったく違うものだと考えている。
つまり、よく言われる、
「トリック」
というものや、謎解きというものへの基本は、
「足で稼いだ証拠集め」
に基づくものだと考えていることだろう。
もちろん、探偵も同じなのであろうが、これが、敏腕単tっていであったり、警察の中でも敏腕であれば、
「その目の付け所が違う」
ということであろう。
ただ、探偵小説などで言われていることとすれば、
「トリックというのは、そのパターンというのは、ほとんど出尽くしていて、後は、バリエーションや、その事件の背景、さらには、動機の奇抜さなどがなければ、本格派探偵小説というのは成り立たない」
といえるだろう。
そのうちに、探偵小説も、次第に、変革していくのだ。
というのも、
「戦前から、戦後に掛けての、混沌とした、おどろおどろしい時代背景から、次第に、社会派というものに変わっていく」
というのも、それまでは、焼け野原の、
「戦後復興」
という時代は、
「何が起こってもおかしくない」
と言われる時代であり、その時代というと、
「世の中が、いかに間斧が出ても不思議がない」
ということで、
「猟奇殺人であったり、耽美主義的な犯罪というのも、探偵小説だけではなく、実際の殺人であっても、起こって不思議のない時代だった」
といえるのではないだろうか?
しかし、時代は、
「朝鮮戦争による特需」
であったり、
「奇跡と呼ばれた復興の速さ」
から、
「もはや、戦後ではない」
ということで、建築業や、インフラ関係の整備から、
「ゼネコン」
などと言われる会社による、汚職事件であったり、地元の人との、いざこざなどが、安定小説のテーマとなる時代と変わってきたのだ。
それは、いわゆる、
「社会派探偵低小説」
と呼ばれるものが出てきたのだった。
本格派と変格派
社会派小説などで、覚えているのは、
「ダム建設にかかわる、汚職事件」
というものであった。
その問題として、その底辺にあるのは、
「ダムの底に沈むであろう、村の存在」
というものであった。
彼らに対しての、買収を行うのに、いかに、会社に関わりないようにさせるかということで、一番いいと思われるものとして、
「村人同士の間」
における、
「内紛を起こさせる」
ということで、バックにいるゼネコン会社による画策をごまかせるというような考え方である。
そうなると、
「自分たちで、直接的な関与をごまかすことができ、さらに、村内部の結束を崩すことにも成功する」
ということで、ゼネコンとすれば、
「買収に金が必要以上に掛かることもないし、何かあっても、会社の関与を疑われることはない」
という発想になるということであった、
ただ、そこで、想像以上に、個人的な人間関係の歪なものがあることで、
「殺人事件にまで発展した」
ということになるであろうか?
ただ、これは、
「ゼネコンにも、まさかと思うようなこと」
ということであり、
「まさか、村人がそれぞれに、怨恨というものが、一触即発であった」
ということを失念していたということになるだろう。
ただ、この問題は、何もこの村に限ったということではない。
他の土地でも、同じようなことがあるとしても不思議のないことであり、本来なら、
「諜報活動」
というものを行うのであれば、それくらいのことを調べておくのは当たり前だということではないだろうか?
特に、これが
「大東亜戦争中」
ということであれば、その時には、軍内部に、諜報活動を行うべき、
「特務機関」
というものが、その首領と血には置かれていたはずだ。
特に、満州国であったり、朝鮮のように、
「元々、日本ではない土地」
というところは、少なくとも、
「日本民族ではない、別の民族が統治しているというところではないか?」
ということであった。
朝鮮などは、途中から、
「併合」
ということをすることによって、
「日本の一部」
となったが、かたや、満州という土地は、あくまでも、独立国として、ただ、実質は、
「関東軍」
というものの、傘下にあったという意味での、
「傀儡国家」
にすぎなかったのだ。
しかも、満州国というところは、国土も広く、民族も乱立していたのだ。
「五族共栄」
というスローガンがあるように、
「満州、漢民族、モンゴル、朝鮮、日本」
という民族が中心となって形成されていた。
しかも、元々中国だったということから、中華民国の勢力が大きかったりする。
だから、昔であれば、
「朝鮮人を含む日本人に、土地を貸したり売ったりした中国人は、まるで、国家反逆罪、あるいは、国土売奴罪とでもいえばいいのか、そのような犯罪を犯したということで、死刑になったりしていた」
という。
それは当たり前のことであり、現在では、
「日本において、日本という国が狙われているということが分かっていて、国を買いに来る外人連中」
に対して、
「金が儲かるから、それでいい」
ということで、それを取り締まりもしない。
というのは、昔で言えば、考えられないだろう。
国家を切り取ろうとして、日本の国を、国家ぐるみで買いあさっているところがあるのに、それを放置するなど、ありえない。
「金さえ儲かれば、日本の国がどうなってもいい」
ということなのであろう。
「国家が日本でなくとも、自分さえ生き残って、裕福になれれば、それでいい」
ということである。
それが、民主主義というものの正体であり、
「そんな状態が当たり前だ」
というのは、
「昔、日本国のために戦って、そして、処刑された日本人」
というものを、世界がいうからということで、
「戦争を起こした犯罪者」
ということで、
「靖国神社にお参りをしない」
というのを同じではないか?
中には、
「愛国心」
ということで、防衛費、いや、軍事費を倍増しようとしていたくせに、
「靖国神社にはお参りをしない」
という国家要人もいたではないか。
完全に、
「自分に対しての、保身というものだけで、口だけ男と言ってもいいやつだったのではないだろうか?」
と感じるのであった。
もちろん、時代背景は違うが、日本を、
「軍事国家にしよう」
と考えているのだとすれば、かつての大日本帝国における、
「国を愁いて死んでいった人たち」
の方が、よほど、偉い存在ではないだろうか?
なぜなら、今の政治家というのは、
「国のため」
と言いながら、
「自分の保身しか考えていないのだろう」
だから、
作品名:小説の書かれる時(後編) 作家名:森本晃次