小説の書かれる時(後編)
「先生は、相手が正とであっても、何であっても、自分の賛同者がいれば、それでよかったのかも知れない」
と感じた。
佐久間は、その時初めて、
「耽美主義」
という言葉を聞いたのだ。
中学生で、
「耽美主義:
という言葉を初めて聞いたというのは、
「早いのか、遅いのか?」
ということは分からない。
というのは、
「確かに、言葉を聞いたことがない」
ということになると、
「そんな言葉も知らないのか?」
という無知というものが、
「いかに自分を恥辱に導くというのか?」
という考えにいたることになり、今まで中学になるまで勉強してきたと思うことが、すべて、無二なっている」
かのように感じられるのだ。
それを思うと、後から思えば、
「耽美主義」
というものを知るには、
「中学生というのは、早かったのではないか?」
と思うのだが、その時は、
「ただ、知らなかった」
ということが、
「知らないということがまるで罪であるかのように感じられる」
ということで、
「思春期をいかに自分の中で捉えればいいのかということが分からなかったのが一番の原因だ」
と考えてしまう自分が、
「考える力がなかったからだ」
と感じてしまうことを、後悔したくないということだったのだろう。
そんな先生が、作っていた石膏像をよく見てみると、最初は分からなかったのだが、その顔が、クラスメイトの女の子や、イケメンと言えるような男の子の顔に似ているように思えてならなかった。
そしてそのうちに、美術部の顧問である先生だったので、佐久間が二年生の時、美術部の卒業製作の中において、先生も作品を発表するのだったが、その作品が、先生本人は、
「今までの作品の集大成」
と言いながらも作成した作品というのは、何とも気持ちの悪いものだった。
というのは、今までの石膏像作品とは、どこか一線を画していた、
正直、石膏像作品というものを、それまで、
「気持ち悪い」
と思わなかったのに、その先生の作品を見た時、
「時代をさかのぼる形」
ということで、
「今までの先生の作品が気持ち悪くなってきた」
と言ってもよかった。
しかし、それは、
「先生の作品に限って」
というだけで、美術関係の本に乗っているような、著名の作家の作品に、気持ち悪さは感じなかったのだ。
それを確かめるつもりで、市内の大きな公園にある、県立美術館に行ってみて、実際に石膏像の作品を見ても、嫌な気分にはならなかった」
といってもいいだろう。
しかし、だからといって、
「どこがいいのか?」
ということも分からない。
「有名作家の作品で、美術館に飾られているからだ」
というリアルな感情以外には分かるわけではなかった。
それは自分が、
「最初から芸術なんか分かるわけはないんだ」
ということを感じるからだったのだろうが、そのことを感じたということが、
「俺は、美術というものを、ひねくれた形でしか見ることができないんだ」
と思わせるきっかけになった。
それなのに、なぜ、
「工芸作家になったのか?」
というと、正直、ものを作るのが好きだったという気持ちからだろうと思っていたが、実際にはそうではなく、
「どうして先生の作品を気持ち悪いと思ったのか?」
ということを感じたいと思ったからではないだろうか?
その思いは、実際に、
「半分は当たっていて、半分は間違っている」
ということであった。
何もそれを知りたいだけで、工芸作家を志すのか? 自分で納得がいかないからだ。
今では、好きでもない人を気にして、自分が工芸を目明日のようになったという事実を打ち消したいという思いがあったからだろう。
だが結果として、先生の作品の気持ち悪さが、その時に分かったわけではない。
むしろ、
「気づいていたはずなのに、気付いていないということを自分に言い聞かせ、その理屈を認めたくない」
という思いから、
「分からないと勝手に思い込んでいたのだろう」
というのは、先生の作品は、あたかも、その石膏像の中に、誰か生身の人間が埋め込まれているかのような美しさだったからだ。
「そんなことあるはずないじゃないか?」
と言い聞かせても、その美は、自分の言い聞かせというものを、超越しているのであった。
という思いから、
「耽美主義」
というものに、自分の感情が立ち向かえないと感じた時、先生が石膏像の中に埋め込んだクラスメイトは、少なくとも、
「自分の中の断捨離の洗濯のうちになったのだ」
ということであった。
経済の発想
送られたデスマスクというものが、どういう意味を持っているのか。そのことを、佐久間は分かっていた。
そのデスマスクが表している人間が、
「一体誰なのか?」
ということよりも、
「その男が誰なのかが分かるかどうか?」
ということが重要だった。
そのマスクを送ってきた相手は、足柄だということは、佐久間には分かっていた。佐久間と足柄は、以前から知り合いであったが、それは、
「仲のいい友達」
というわけではなく、お互いに
「利害関係が一致する仲間」
と言った方がよかった。
といっても、その利害関係というのは、
「共通おできごとで、二人が同時に得をしたり、損をしたりという、そういう、損得を共有している」
というような、
「利害関係の一致」
というようなものではなかったのだ。
自分と、利害が一致というのは、本来は、
「共通の利害」
である必要はない。
つまり、
「お互いに相手のためになることをすることが、相手のためになるということになるのではないか?」
というのも、
「立派な利害関係の一致」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えた時、
「一人ではできないことを、二人で行えば、そこには、相乗効果が生まれ、不可能だと思われることも、可能になるのではないか?」
と、考えたとしても、それは無理もないことだ。
今回のこの、
「デスマスク」
というものは、ある事件の、
「プロローグにしかすぎない」
というものであったが、それは、お互いに、
「覚悟を決める」
という意味で、重要なことだった。
二人のうちのどちらが切羽詰まっているかというと、それは、佐久間の方であった。
佐久間の方とすれば、死んでもらいたい相手というのが、借金取りであり、最近特に、しつこく取り立ててくるので、ノイローゼを通り越して、気が狂いそうになっていたのだ。
もっとも、そんな人は、佐久間に限ったことではないのだろうが、
「この男が死んでくれたら、どんなに気が楽になるか」
と思っていた。
だが、佐久間はリアルに切羽詰まってくるとことで、
「目の前に起こっていることだけから逃れたい」
としか思っていないと、分かっていたのだろうか?
確かに、人間というのは、切羽詰まってくると、目の前の苦しみだけでも逃れられれば、それでいいと思うことだろう。
しかし、それは本当の根源から逃れられるものではない。それこそ、まるで、
「トカゲの尻尾切り」
ということをやっているだけではないか?
と思えることだろう。
作品名:小説の書かれる時(後編) 作家名:森本晃次