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記憶の原点

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 という覚えがあった。
 親や先生は、可憐のことを、
「おかしい」
 というのだが、可憐とすれば、
「何がおかしいというのだ?」
 という疑問しか湧いてこない。
 そんなことを感じたのは、覚えているのだが、
「何かがおかしい」
 という漠然とした意識だけがあったのだが、自分が、
「一時的な記憶喪失になった」
 という意識だけは、記憶の奥にへばりついているという気持ちは強かったのだ。
「夢というのは、かなり前のことを見るかのようであり、しかも、目が覚める間いに、一部の記憶というものを失うものだ」
 と思うと、
「夢で覚えているものと、忘れてしまったもの」
 というものが、ハッキリしないということが分かるのだった。
 夢の中で、
「かなり、以前のことを夢に見る」
 という感覚は、
「以前にどこかで、見たり聞いたりしたことがあるのではないか?」
 ということを、ある程度信憑性があるということで、気になっていることとして、
「デジャブではないか」
 ということになるのだ。
「デジャブというのが、予知夢と結びついているような気がする」
 ということを考えると、
「デジャブや予知夢というのは、どこか、夢の共有という考えと、切っても切り離せないものではないか?」
 と感じるのだった。
 可憐は、今回目が覚める時、
「私の記憶は、また一時的に消えているんだわ」
 と感じていた。
 しかし、それは、可憐に始まったわけではなく、他の人も同じであって、それを誰もが意識させないということは、
「そのあたりの理屈は分かっているので、今回も、どうせ、記憶喪失になったことも、人に悟られないようにしないといけない」
 と感じたのだ。
 記憶喪失というのは、どこまでを忘れてしまうのだろうか?
 よく言われているのは、
「自分がどこの誰なのかということは分からないが、世間一般の常識のようなことは憶えている」
 例えば、勉強をさせても、試験をしても、同学年と思しき人たちと同じ学力は存在し、テストをやっても、ちゃんと常識的なところは分かっているのだ。
「こんな都合のいいことってあるのだろうか?」
 と考えてしまう。
 学校の勉強をしても、成績がいくらよくなっても、それらを、
「使いこなすことができる頭が必要だ」
 ということであるが、
「可憐が陥る記憶喪失」
 の中では、都合のいい記憶だけが存在し、しかも、その記憶だけが残っていることに違和感はないのだ。
 記憶喪失だけに焦点を当てると、
「都合のいい記憶喪失につながるということは、記憶というものは、思い出せないというだけのことで、夢から直で、記憶として格納されていることだろう。しかし、そのことを意識できないというのは、できないわけではなく、できないかのように、自らが、記憶の優先順位を立てようとして、無理を感じてしまうからではないか?」
 と感じるのだった。
 一つだけ、気になっているのは、
「同じような夢を何度も見ることがある」
 ということであった。
 そもそもは、
「もう一人の自分」
 というものが、
「夢の中に出てきたというのを意識してしまった」
 と感じることであった。
 可憐は、自分の記憶が、
「まったく違う人の意識」
 として感じることが何度だっただろうか?
 ただ、どこかで共通点も多かった。
 それでも、同じ夢という感覚ではないので、すぐに、
「誰かの夢に自分が入ったのか、それとも、他の人が入り込んできたのか?」
 ということであったが、そのどちらもあるような気がする。
「夢が、デジャブを引き起こす」
 という、少し強引な考え方であったが、
「デジャブというものが、何か、一周回って、もどってきたのではないか?」
 と感じたのだとすれば、
「やはり、夢を見るということは、いろいろな発想を導くのではないか?」
 と感じるのだった。
「ブームというのが、十数年に一度の割合で、一周回って戻ってくる」
 という考え方に似ているというようなものである。
 ファッションにしても、小説のジャンルなどのブームのことであるが、それぞれに微妙な違いはあるが、
「何かの法則性のようなものがあるのではないか?」
 と感じるようになっていたのだった。
 そんなことを考えていると、
「夢の中の時間の進み方と実際の時間の進み方が違っているのではないか?」
 と感じていたことを思い出した。
 これは、
「時間そのもの」
 というよりも、
「時間の進み方」
 というものであり。
「普通であれば、時間というのは、規則的に刻んでいるものだ」
 ということであるが、それは、あくまでも、
「人間が勝手に決めた時間」
 ということである。
 時間とは、
「時の間」
 のことであり、似た言葉として存在する、時刻というのは、
「時を刻む」
 ということである。
 つまり、たとえば、
「三時から、三時五分までの間を五分間という」
 ということから。時間というのは、
「五分間」
 というものであり、
 時刻というのが、
「三時」
 であったり、
「三時半」
 ということになる。
 つまりは、
「時刻と時刻の間を時間というのだ」
 ということである。
 しかし、実際には、時刻も時間も、それぞれ、曖昧に考えてしまうことがある。
「時間と時刻を頭の中で混同してしまい、どっちがどっちなのか、自分でも分からなくなってしまう」
 といえるのではないだろうか?
 タイムマシンというものを考えた時、
「時刻というものは存在するが、時間というものは存在しない」
 といってもいいかも知れない。
 厳密には、
「時刻というものは、存在しているが、時間と時間の間に必ずあるはずなのに、それがゼロになっている」
 ということであろう。
 ただ、
「時刻をゼロとしてしまうと、完全に、矛盾が起こってしまい。パラドックスが生まれてくることになるだろう」
 といえるのではないか。
 だとすれば、矛盾が起こらないようなものの創造が必要だが、それを解決してくれるのが、
「限りなくゼロに近い」
 というものの存在であった。
 つまり、前述のような、
「マトリョシカ」
 であったり、合わせ鏡のように、
 「少しずつ小さくなっていくという状況が、永遠に続くという理論の中であっても、それが続く以上、完全なゼロになるということはありえない」
 ということになるのだ。
 それを考えると、
「タイムマシン」
 というのも、
「時刻から時刻を飛び越えた」
 という意味で、決して、時間が消え去ってしまったなどということはありえない。その長さが、識別できないようなくらいのものであったとすれば、
「限りなくゼロに近い」
 という発想はあり得ないことではない。
 この感覚は、
「ヘビが自分の身体を、尻尾から丸のみしているかのような感覚」
 といえるのではないだろうか?
 最後は想像がつかない。
 普通に考えれば、消えてなくなるということだが、それもおかしい。何かの矛盾となっているのであるから、それは、よく科学者などが、異次元へのパスポートとして表現するという、
「メビウスの輪」
 という発想に似ているではないか。
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次