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記憶の原点

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「夢の世界」
 というのも、「もう一つの、別の次元なのかも知れない。
 ただ、夢には、
「絶対的な限界」
 というものがある。
 それは、
「夢を見ている本人が、信じられることでしかありえない」
 ということである。
 本人が、
「空を飛べない」
 ということを、当たり前のこととして意識したならば、
「絶対に、空を飛ぶことはできず、できるとすれば、中二浮くということくらいしかできないものである」
 ということになるのであった。
 これは、あくまでも、
「夢の世界」
 というものも、今までの発想の中にあった、
「相対性理論」
「タイムパラドックス」
「ドリームパラドックス」
 または、
「タイムマシン」
 というものを、どれか一つでもハッキリと証明できれば、他のものも、理屈として、証明できるのではないかと思う。
 それができれば、
「鏡の上下対称」
 であったり、
「夢というものの共有」
 ということも証明できるのだろうが。
 一つ考えることとして、もし、タイムマシンが、相対性理論のようなものだとすれば、そこにあるのは、
「未来にしかいけない」
 ということになる。
「光速が、未来への時空の歪みだとすれば、じゃあ、低速にすれば、過去に行けるという発想なのだろうか?」
 それはありえないと思う。
 例えば、マトリョシカであったり、合わせ鏡のようなものであれば、
「どんなに小さい存在になっても、決してゼロにはならない」
 という、
「限りなくゼロに近い存在」
 であるが、
「決してゼロにならない」
 と考えられるものである。
 そのような光速の理論であれば、
「過去と未来の空間は、まるで鳴門の渦潮のようなものであり、どちらに空間が回っているかということで、過去に行けるか、未来に行けるかが決まってくるのではにあか?」
 ということも考えられるような気がする。
「普通であれば、考えられないような発想になるということであろうが、一つ、発想を変えることで、不可能であると思える過去への移動というものが、不可能ではないということの証明になるのではないか?」
 とも考えられるのだった。
 というようなことを考えていると、
「夢も、時系列でしか見ることができないものなのだろうか?」
 ということを考えてみたりする。
 夢というものには、
「正夢」
 であったり、
「予知夢」
 と呼ばれる、未来のものを見ることがあるという。
 ただ、これも、発想を変えれば、
「起こったことを中心に考えると、もし、似たような感情があったからということで、考えてみた場合、あくまでも、夢に見たかのように思っているが、錯覚なのかも知れない」
 とも考えられるのではないだろうか?
 それこそ、
「デジャブ現象」
 のように、
「今回起こったことが、過去に起こったことであり、以前にも見たことがあったかのように感じる」
 ということになるのだ。
 それも、原因はハッキリとしていないというが、何やら、錯覚であったり、意識の中の、
「辻褄合わせ」
 ではないか?
 というようなことを言われていたりする。
 だから、
「現象か、意識のどちらに重きを置いて考えるかによって、デジャブであったり、予知夢というようなものであったりと、その感覚に近い形で納得しようとするのではないだろうか?」
 ということである。
 それらのことを考えてみると、
「ただ、タイムマシンというものが、どんなに開発されたとしても、過去にしかいけない」
 というものであったとすれば、
「予知夢や、デジャブ」
 というものを、
「説明できる手段がない」
 といってもいいだろう。
 世の中において、
「時系列」
 というものは、
「絶対の法則」
 のようなもので、それを違う形で証明しようとしてもできないだろう。
 夢にしても、デジャブにしても、時系列を崩して見れるものではないと考えると、
「やはり、違う次元の介入は、必要不可欠なのではないか?」
 ということになるであろう。
 それが、
「二次元なのか、四次元なのか?」
 ということである。
 確かに時間という意味での時系列からいけば、
「四次元」
 が不可欠だというのはあり得ることだ。
 しかし、
「この三次元を中心に考えるのであれば、夢という時系列が一番曖昧なものと結び付けようという考え方をする」
 ということであれば、
「鏡の向こうの世界」
 という発想で、夢を考えるのであれば、どうしても、相手が平面だという発想になると、そこは、
「二次元の世界の発想だ」
 ということになるであろう。
 それを考えると、
「二次元の世界の向こうに存在している世界」
 そこが、
「夢の共有」
 という形で生まれてくるものなのではないだろうかと考えられる。
 老人なのか、若者なのか分からない感じだが、白髪に杖だけを見れば、明らかな老人である。
 実際にその老人が、立っている足元を見ると、まるでドライアイスを敷き詰めたような煙がもくもくと足元にだけ立ち込めていた、
 明らかに、どこかのスタジオのセットだということは分かった気がした。
 今までの自分たちが見てきたドラマやコントのスタジオというのは、大体わかっている。学校から、以前、社会見学ということで、どこかの放送局に行ったことがあった。
 その時、ちょうど撮影をしているシーンを見たことがあったが、
「ああ、セットって、こんな感じなんだな」
 というのを感じたからだ。
「そうだ。あの時も、足元から立ち込めている煙を見た気がするな」
 というのだが、
「あの時は、確か、天国か何かのシーンで、想像以上に、こんなにも何もないんだ」
 ということでビックリしたものだった。
 そんなシーンであったが、実際に、撮影されたシーンを見せてもらったが、
「あれ? こんなにいろいろあったかな?」
 と思って、映像をじっと見ていたが、それに気づいた、説明をしてくれた人が、
「どうやら、セットを表から見ているわりに、カメラを通すからいろいろ見えるのが不思議なようだね」
 と言われた。
 皆が一様に、首を下げると、
「これはね、角度によって見る光景が違うんだよ。みんなも、チョコレートやチューイングガムなどのおまけで、光沢のあるシールが入っていたことがあるだろう? あのシールは、角度によって、見えるものが違ったりしているよね? あれと同じ仕掛けを、撮影所のセットでも使っているんだよ」
 と説明をしてくれた。
「ああ、なるほど」
 と、皆感心して、頭を下げていたのだった。
 ところで、
「よく見てみると、煙が表から見ると、もっと深かったような気がするのに、映像になると、今度は、それほど目立たないではないか?」
 と思ったので、やはり同じことを皆思うようで、そのことを質問すると、
「こちらは、簡単なことで、後で映像を編集する時に、煙をわざと消しているようなやり方をするんだよ」
 と言われたのだ。
 そんな光景を思い出していると。
「あの時に見たことを覚えているから、映像も、少々大げさな感じを受けるような気がするな」
 と感じていた。
 夢の中で出てきた人物も、
「本当に老人かも知れないが、それ以上に、盛っているような気がするな」
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次