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記憶の原点

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 ということになりかねない。
 だから、自分の夢をなるべく曖昧な状態にし、必要以上に、
「夢というものは、メカニカルではない」
 と思わせる必要があるのだろう。
 そう思うと、夢の長さや時系列。そして、夢の中での信憑性をいかに曖昧にするかによって、崩してしまったとしても、何とかなるのかも知れない。
 それが、夢の中においての、
「自浄能力なのではないか?」
 といえるであろう。
 だから、曖昧な中において、夢の中での自分であれば、
「夢を共有している」
 という感覚を持っていることであろう。
 しかし、それ以外であれば、曖昧さから、さらに、夢を共有しているというところまで認めてしまうと、夢の矛盾が、この世界にも及んでしまい、まるで、
「タイムパラドックス」
 のようなものが、
「ドリームパラドックス」
 として、君臨してくるかも知れない。
 タイムパラドックスも解明されていないのに、さらに、別のパラドックスが登場すれば、曖昧さのカオスが、どうにもならなくなるようで、
「どうすればいいのか?」
 と考えさせられてしまう。
「夢というもの、さらに、刻々と、未来が現在になって過去に向かうというその瞬間を、タイムパラドックスと一緒に考えてもいいのだろうか?」
 と思うと、曖昧さが、いつの間にか、重みとなって、のしかかってくるのではないかと感じるのであった。
「夢」
 というものが、
「別次元である」
 と考えると、考えられるのは、
「二次元」
 そして、その二次元を鏡で表すと、
「鏡に写っている瞬間、見えている範囲でしか確認できないわけなので、死角の部分は、どうしても存在する」
 では、その死角の部分というのは、
「本当に夢なのだろうか?」
 と思えてくるわけで、
「夢というものも、確かに、時系列がバラバラで、どこかタイムマシンのようなところがある」
 と思える。
 それがどこなのか?
 ということになれば、
「タイムマシンというものは、一瞬にして、過去にも未来にも行けるというものだが、未来に行けるとして考えてみよう」
 と考える。
 もし、タイムマシンに、到着場所というものを、五分後の同じ場所。
 ということにするとどうなるだろうか?
 実際にタイムマシンが存在しているわけではないので、
「理論的な説明」
 しかできないが、
 その説明によれば、
「タイムマシンが作動する時間になると、ある方法を使うとタイムマシンが消えることになる」
 というわけだ。
 それが、
「ある一定のスピードをオーバーする」
 ということになると、ある地点から消えてなくなるということになる。
 しかし、五分経つと、その場所と寸分狂わぬ同じ場所に、轟音を立てて戻ってくるということになるのだ。
 その間、タイムマシンの中の本人は、時間が進んだ意識はない。何かのショックを受けただけで、同じ場所にいるのだから、タイムトラベルの意識はない。
 しかし、時計は進んでいないのだ。
 五分前の時計が、その空間には存在している。
 それはまるで、
「走行中の電車の中で飛び上がる時に、電車の中での密室の中で移動した」
 というだけの、
「慣性の法則」
 というものと同じだといっても過言ではないだろう。
 もう一つの考え方として、タイムマシンの発想を、
「相対性理論」
 というものと組み合わせるという発想がある。
 というのは、相対性理論というものは、
「光速に達した時の、時間の進み具合が違う」
 という発想である。
「光速のように光のスピードを突破するものに乗っていたとすれば、通常のスピードで暮らしている人間というものよりも、かなり時間の進みがゆっくりになる」
 という理論である。
 つまり、
「光速を超える宇宙ロケットに乗り、1年間地球から飛び立っていて、1年後に地球に戻ってきたとすれば、地上では、数百年の時が過ぎていた」
 という発想である。
 この発想をテーマにした映画や、ドラマもあったりしたが、何よりもすごいと思うのが、おとぎ話の中にある、
「浦島太郎」
 の話である。
 あれには、
「光速で移動する」
 という明記はないが、
「海の中」
 という別世界に入ったことで、2,3日だったはずの時間が、地表に戻ると、数百年が過ぎていた。
 というような話だったはずである。
 確かに、海の中と、
「宇宙空間」
 というのでは、まったく違うものという発想だろうが、今の時代のアニメであったり、SF小説などというのは、
「宇宙空間を、大海原という発想で見ることがある」
 というものだ。
 アニメなどでは、
「宇宙戦艦」
 などという発想があったり、そもそも、宇宙での乗り物は、
「宇宙船」
 というではないか。
「海の中でも、宇宙空間でも、人間は息ができない」
 当然、そのままでは、生きることができない場所なのである。
 そういう意味では、
「神聖な場所」
 といってもいいのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、浦島太郎の話も辻褄が合うというものだ。
 となると、タイムマシンも、
「宇宙空間」
 であったり、
「大海原」
 だと考えると、時間旅行というタイムトラベルは、
「相対性理論」
 の発想と辻褄が合うのかも知れない。
 だとすると、タイムマシンというのは、
「光速の数百倍」
 というような、目に見えないスピードで、どこかに行って、元の場所に戻ってくれさえすれば、成立するものではないか?
 つまり、千年後に行こうと思えば、千年間、どこかでずっと光速で移動していれば、自分が短い時間内において、
「まるで時間を移動してきたかのように感じる」
 ということになるだろう、
 ただ、問題とすれば、
「どこまで、どれほどのスピードで飛んでいき、そして正確に戻ってこれるか?」
 ということである。
 そもそも、飛び出すのはいいが、
「その先に、何があるのか?」
 ということは分かっていない。
 下手をすれば、宇宙空間にある、例えば、
「土星の環」
 であったり、
「アステロイドベルト」
 のような、
「星の欠片などが点在しているところだったりすると、どうなるか分からない」
 ということである。
 宇宙がどうなっているかということを完全に把握していて、それを制御できなければいけない。
 もっといえば、光の速度を超えるのだから、今の地球に戻ってくれば、数百年が経っている。
 ということであるが、
「では、宇宙の飛び出して、少しでも、光速を越えて飛び出したそこは、若干でも、
「時間の違う世界ではない」
 ということになる。
 つまり、先の未来をさらに予想しておかなければならないわけで、その予想も、計算上に行き着く時間ではなく、
「タイムパラドックスによって計算された時間でなければいけない」
 ということになるのだ。
 そんなことを考えていると、
「タイムマシン」
 であったり、
「ワープ」
 などと言われる、光速移動の装置では、三次元の世界のような、今の時代の宇宙というものだけを計算していてはいけない。
 そこで考えられるのが、
「時間の歪み」
 とでもいっていいのだろう。
「四次元の世界」
 の話なのだ。
 そんな時代というものを考えていると、
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次