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記憶の原点

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「小学生としての、問題の解き方」
 というのは、
「問題に対して、正しい姿勢で回答しよう」
 という、
「謙虚な姿勢」
 というものが、
「小学生として、問題を解くということに、真摯に向き合っているのではないだろうか?」
 そんなことを考えていると、生徒に対して、苛めのような理不尽さが、
「すでに小学生の間でも起こっているんだ」
 と思えて、本当に理不尽さと、考えてしまうだろう。
 さすがに学校の先生は、あまり余計なことは言わなかった。
 ただ、可憐に対して、
「何か聞きたい」
 いや、
「何かを言いたい」
 という思いがあったように思える。
 しかし、下手に突っ込んでしまって、生徒が簡単に立ち直れないほどのショックを受けたりすれば、教師としては、
「取り返しのつかないことをしてしまった」
 という発想になり、どうすればいいのかということを考えざるをえないのだった。
 ただ、
「私は、他の人とは違うんだ」
 という意識が強いことは分かっている。
 だからこそ、
「変わり者」
 と言われているような気がしてならないのだ。
 実際に、まわりの皆の目が、まるで、
「触れてはいけない」
 というものではないかと感じていた、
 同じ結論ではあるが、一番強く感じているのは、
「担任の先生」
 ではないだろうか。
 何しろ、生徒に対して、学校内であれば、すべての責任を負う立場になっているのではないかと感じると、
「義務教育」
 という名のもとに、どうしていいのか分からないという状態に陥った時、ジレンマからか、精神に疾患を感じさせ、
「休職できるなら、お願いしたい」
 ということであった。
 実際に、給食も考えたが、
「自分が、ここで脱落すると、残った人間にしわ寄せがいく」
 というような、いわゆる、
「当たり前」
 ということであるが、中には、
「見てみぬふりをする」
 ということで、
「成績だけを数字として追いかける」
 という方に舵を切る人もいる。
 可憐の担任が、そういう気持ちだったのかどうか分からないが、正直、
「病んでしまうところに、脚を突っ込んでいる状態だ」
 といってもいいだろう。
 担任の先生が、
「まさかここまで、自分のことを考えてくれていた」
 とは思わなかった可憐は、ある日、そのことに、いきなり気づくことになったのだ。
 小学生というと、
「すべてが、平均的なレベル」
 というのが、一番の理想だと思っていた。
 確かに一つでも特化していればいいのだろうが、その場合は、秀才か天才でもないかぎり、中学生以降、その時点から、
「成長がない」
 ということになってしまって、
「気づかない致命傷」
 というものを追ってしまうのではないだろうか?
 と考えられるのであった。
 それを何とかしようと考えたのが、一種の荒療治なので、
「結局、何もできる状態にいない」
 といった方が、正解なのかも知れない。
 先生は、半ば、可憐に対して、指導を行うことが困難だ」
 ということになったが、
「無理だ」
 と言わずに、
「困難だ」
 というのは、
「実際に、指導をマンツーマンでやろうとすると、困難だという意識が、ゼロではないが、限りなくゼロに近いといえるものになるのではないだろうか?
 と考える。
 同じような考えを、可憐も実は持っていて、誰にも言わずに黙っていた。
「どうして、この意識が持てるのか?」
 というと、これも、
「夢による、潜在意識のなせるわざ」
 ではないだろうか?
 と考えるのであった。
「夢というのは、正夢なのか、予知夢なのか?」
 というような、実に不可思議なものがある。
「夢に見たものが、実際に起こる」
 というもので、それを、
「正夢」
 と表現してみたり、
「予知夢」
 という言葉にしてみたりと、それぞれである。
 しかし、正夢と予知夢というものが、そもそも同じものではないと考えると、
「夢の種類というのは、何も一つだけというわけではないだろう」
 といえるのではないだろうか?
 それを考えると、
「怖い夢、そうではない夢」
 という二つに分けることができると感じるのは、
「覚えている夢があるなし」
 ということを考えると、
「夢というのは、見る時と、見ない時の二種類ある」
 という考え方と、
「実際に、夢というのは、毎日見ているもので、覚えている夢と、覚えていない夢の二種類がある」
 と考えると、
「覚えている夢」
 というのは、今自分で理解している範囲では、
「怖い夢」
 というものである。
 その怖い夢というのが、どのような夢なのかというと、もちろん、一つではないはずだが、一番印象深いといえるのは、
「もう一人の自分が出てくる夢だ」
 ということであった。
 もう一人の自分といって、思い浮かんでくるのが、
「ドッペルゲンガー」
 というものの存在であった。
「ドッペルゲンガー」
 というのは、
「世の中には、自分と似た人が、三人はいる」
 と言われる、その三人の中の一人ではない。
 言われていることとしては、
「別世界に存在している自分ではないか?」
 ということである。
 別世界なので、普通の空間で出会うことはない。
 夢の中という特殊な世界でしかありえないことではないか?
 ということを考えてみると、
「では、夢というのは、別世界との境界において、見えなかったり、感じることができない」
 という存在だと思うのだ。
 夢というものの存在をいかに考えるか、よく言われていることとしては、
「夢とは、潜在意識が見せるものだ」
 ということである。
 つまりは、
「自分が頭の中で考えられる範囲でしか見ることができない」
 要するに、
「空を飛びたいと思っても、潜在意識の裏側では、人間が空を飛ぶことなどできない」
 という発想を持っていることから、
「宙に浮く」
 ということくらいであればできるかも知れない。
 と思っているからだろう、
「宙に浮く」
 ということくらいまでは、潜在意識の力で想像することができるというわけである。
 この発想に、信憑性を与えるために、
「夢というのは、もう一人の人物を創造した」
 といえるのではないだろうか。
 基本的に自分の夢に他人が登場することはない。もし、登場したと考えるのであれば、それこそが、
「もう一人の自分」
 として登場するわけではないので、違和感はないのだった。
 そう考えると、自分の夢に他人が出てきたという意識はあるが、目が覚めてしまうと、その存在だけが意識していても、どんな顔だったのか、そもそも、
「そんな顔の人間など見たことがない」
 とばかりに考えていたのだろうか?
 だから、
「夢の中に、他人が出てくるとは、当たり前だ」
 という発想になるのは、
「夢を見て、一番怖いと思うのは、もう一人の自分を見たからだ」
 という発想にいたってしまうからだろう。
「もし、自分の夢に他人が出てくることはありえない」
 というような発想も、
「きっと、もう一人の自分を見た瞬間に、それを見たことも、何もかも、一つのことへの発想に結びつけるからではないだろうか?」
 ということであった。
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次