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記憶の原点

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 主人公ではないというのは分かっている。主人公はあくまでも、夢の中にいる自分だからである。
 そんなことを考えていると、同じ自分をさらに見ている人がいる。それが、同じ人物を見ているということで、
「神視点」
 なのではないかと思うのだった。
 小説というものには、いろいろなジャンルがある。
「探偵小説」
 はもちろんのこと、
「恋愛小説」
「純文学」
「ファンタジー小説」
 などといろいろある。
 一概には言えないが、
「どの書き方が、一般的には、どのジャンルに向いている」
 などということを言われたりもしている。
 それらの小説であるが、作家によっても違ってくるのではないだろうか?
 この物語の主人公である。カノン。女の子であるが、まだ小学生であった。
 名前が、
「カノン」
 というので、
「外人か?」
 と言われるが、そういうわけではない。
 大人から見れば、
「他の日本人の子供よりも、日本人っぽく見える」
 ということらしい。
 そもそも、
「日本人らしい」
 というのは、どういうことなのか? 正直、どういうことなのか分からないのであった。
 そんなカレンであったが、学校では、日本語の名前を使うようにしていて、クラスメイトからの苛めの対象にならないように、そして、
「父兄から、好奇の目で見られないようにするため」
 ということであるが、その理由に関しては、ハッキリと分かっている人はいないだろう。
 確かに、まわりから見れば、
「小学生のいたいけな女の子が、苛めの対象とされてしまうのは、理不尽だ」
 ということである。
 それも、別に自分が悪いわけではない、ましてや、親が悪いわけではない。せめて、学校側からは、
「せめて、学校では、漢字の名前で行きましょうね」
 と言われ、親も納得したのだった。
 そこでつけられた名前は、
「可憐」
 であった。
 この名前であれば、別に変な名前ではない。
 いわゆる、当て字などが使われる、
「キラキラネーム」
 などというものではないので、
「可憐」
 という名前を付けられるを、カレンの方でも、嫌ではなかったのだ。
 別に日本人離れをしているわけではないので、名前の元々が、カタカナだったということに気付く人もいなかったのだ。
 学校側には、さすがに虚偽の報告ができないということで、このようにしたのだが、実はこれも、
「最初から計算のうちだった」
 ということであったのだ。
 そんな可憐の通っている学校は、今住んでいるところから、徒歩で15分くらいのところだった。
 実は、少し近所の人は気になっていたのだが、そもそも、可憐が住んでいる家は、
「昔から、誰も住んでいない、寂れた空き家だったはずなのに」
 ということであった。
 いつの間にか、綺麗な屋敷に変わっていて、まるで昔から住んでいたかのように、違和感がない感じで、可憐の家族が住み始めたのだ。
 最初は、
「何か変だ」
 という人もいたが、途中から、なぜか誰もおかしいと思う人もいなくなっていたのだ。
 可憐という少女は、成績は悪くはなかった。
 しかし、学校の先生からは心配されていた。
 というのは、成績が悪くないというのは、
「平均点では悪くない」
 という意味で、特化して成績がいいものと、悪いものの性激しいのだった。
 算数や理科などは、誰よりも特化して成績がいいのに、それ以外の教科は、ほぼ、最悪という感じである。
 中学生以降になると、自分が進む道を、理数、文系と別れるのであるが、今の段階では、特化する必要もない。
 むしろ、
「平均的な成績をとってくれた本が安心だ」
 というのだ。
 それが小学生であり、義務教育の範囲内だといってもいいだろう。
 しかも、周りからは、成績がいいことには関係なく、成績が悪いところだけを切り取られる形で、あまりよく思われているようではなかった。
 皆が皆、
「平均的な成績を目指している」
 というもので、うまくいかないと、その悪い部分の成績を、まわりから苛めの対象にされるのも、可憐だけのことではなかった。
 成績の良し悪しに関しては、学校の先生も困っていた。
 まだ小学生は、一人の先生、いわゆる、
「担任」
 が教えるわけなので、そのあたりのバランスは、把握しているはずである。
 点数だけでは分からない。
「これからの教育方針も分かっている」
 というものであり、
「間違えた問題には、それなりの共通性のようなものが潜んでいるので、その問題点を分かるのも、担任にしか分からないだろう」
 学校の先生は、
「生徒の、素晴らしい部分を延ばす」
 というところと、
「成績の悪いところを克服する」
 という課題と、どちらを大切にするべきだという意識なのだろうか?
 小学生教師の、
「指導要綱」
 などというものには、いったい、どちらを優先させるということになっているのだろうか?
 ひょっとすると、そんなものは、載っていなくて、
「教員それぞれの、判断に任されている」
 ということになるのではないかとも思えるのだ。
 それは、生徒一人一人の性格の違いもあり、
「どちらの道が正しいのか?」
 ということも、生徒の発想から、どうすればいいのかということを考える必要があるということなのかも知れない。
 また、先生が、必要以上にのめりこんでしまうと、他の生徒から見て、
「先生はえこひいきしている」
 などと思われると、先生としてが、そのつもりはなかったとしても、
「先生が引き起こした苛め」
 というものにつながるのかも知れない。
 このあたりはなんといっても、
「難しい発想」
 だろうから、そう簡単に結論づけるわけには、いかないのだろう。
 先生にとっても、そんな理不尽な苛めは、自分でもどうしていいのか分からなくなるということに繋がってしまう。
 そもそも、原因が自分であることに、先生は気づいているのだろうか?
 気づかないから、苛めが絶えないわけで、その中の一定数には、
「学校の先生が原因」
 となる苛めが、潜在しているといっても過言ではないだろう。
 いくら、
「先生に悪気はない」
 といっても、教育者の端くれ、そのあたりの理屈が分からないということであれば、下手をすれば、
「教師失格という烙印を押されかねない」
 ということである。
 何と言っても、小学生は義務教育。そんな中で、基礎学力をつけるのが、小学生である。
 中学生になると、公式や解き方の基礎を学ぶことになり、それが理解できるための、さらなる、
「基礎知識」
 というものを身に着けるようになるのだ。
 つまり、小学生というのは、
「どこまで行っても、基礎知識でしかないのが、小学生の頃であり、逆に、どんなやり方でやっても、プロセスが理路線善としていて、答えさえ合っていればいいのだ」
 ということである。
 問題から、答えを引き出すまでに、どのような苦労があったか?
 つまりは、
「答えが合ってさえいれば、どんな解き方であろうと、その理由に筋が通っていれば、すべてが正解だ」
 ということだ。
 小学生というのは、どこまで行っても、この発想を正しいとするのだった。
 それらの正しさというのは、
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次