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記憶の原点

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 だといえるのではないだろうか?
 もちろん、そのお金で暴利を貪ったり、
「お金を使うことで、優劣を買い取る」
 ということになれば、その優劣が決定的なものになるということで、
「主従の関係だって、金で買えるのかも知れないし、実際に感じていないということでも、気が付いていないだけで、無意識にお金を出しているものが、実は主従関係を金で買っているということになるのかも知れない」
 といえるのではないだろうか。
 それを考えると、
「世の中で、金で買えないものはない」
 と言った人がいたが、それも、なまじウソではないかも知れない。
「地獄の沙汰も金次第」
 などと言われているが、実際に、この世でそれが蔓延っているのだから、問題なのかも知れない。
 考えてみれば、何だって、金で買える。
 権利や義務だって、金で買えるかも知れない。
「いや、実際には、気付かないだけで、金で買っているものもあるだろう」
 といえる。
 そもそも、お金を買って、どこかの入場料や、イベントの参加権などというものは、
「お金を出して、その場所を買っている」
 つまりは、
「拝観の権利」
 を買っている。
 ということになるのであろう。
 確かに、野球を見るにも、ライブを見るにも、
「無料開催」
 でもなければ、すべて有料である。
 これは、もちろん、開催するにあたって、それまでに掛かった経費や、作品の価値(付加価値)などを、シビアに計算したものが、対価として決められる。
 だから、対価というのは、物々交換などという曖昧なものではなく、綿密に計算されたもの同士で交換できるための、対価だということだ。
 そこには、
「金の前では、誰でもが平等だ」
 ということになる。
 しかし、なかなかその理屈と理解してくれる人たちは、なかなかいないだろう。
 というのも、そこに、
「力関係」
 が関わってきて、
「その力関係は、お金の価値というものを凌駕するという形で、使われる力」
 つまりは、
「人間世界にある、すべての人間の関係が、全部が平等でなければ、お金が左右することができる力関係がなくなるということはない」
 ということであろう。
 つまりは、
「オールオアナッシング」
 ちょっとでも、違うところがあれば、まったく違うものだということであり、その時点で、力関係は存在している。
 ということになるのだ。
 だが、それは、元々平等ということで作られたお金だったはずなのに、力関係で少しでも優位に立つということを考えだした人間が、せっかく自分たちで
「平等で犯すことなどできないはずの、お金というものを作った」
 というのに、それを、また自分たちの秩序を壊してまで、計画していたということになるのであろう。
「お金というものが怖いわけではない。それを平等の象徴として使うことのない人間の、一種の自業自得なのだ」
 といえるだろう。
 そんなお金というものも、
「使い方によっては、毒にも薬にもなる」
 ということである。
 お金というものが、いかに大切なものであるかということは、
「現物との対価」
 ということを考えれば当たり前のことである。
 今の世の中では、
「お金というものが、絶対だ」
 といってもいいだろう。
 お金の価値が下がる、
「ハイパーインフレ」
 などと呼ばれた、例えば、戦後のような、
「現物の価値が高いため、お金が、紙くず同然」
 ということになると、
「お金を持っていても、宝の持ち腐れどころか、ゴミでしかないのだ」
 ということになると、戦後のように、
「価値のあるお金」
 ということで、
「新しいお金以外を使えない」
 ということにして、しかも、新札に交換することも、一人の最大が限られてしまうということになるのだ。
 もっとも、持っていてもただに紙屑なのだから、結局は同じことなのだが、
「それまで、必死で貯めてきたもの」
 つまりは、そのための努力までが、
「水の泡だった」
 ということが、証明されたかのようになってしまうのだ。
 そんな状態になると、
「お金の価値が、まったくなくなる」
 ということになると、
「努力をしても報われない」
 ということになる。
 戦後などでは、その努力というのが、生き残るための、
「闇市」
 であったり、
「闇ブローカー」
 などという法律的に、まずいやり方になるということであろう。
 もっといえば、お金というものが、いかに
「価値のないもの」
 という時代になってしまうと、それこそ、
「生きている意味の半分は、ないのではないか」
 と感じることになるだろう。
 つまりは、
「生きていく上には、生きるだけの生きがいというものがないといけない。その証明を、お金というものに求める人も多いだろう」
 ということだ。
 なぜなら、今の時代であれば、
「努力や成果によって、得られるものが、お金だから」
 ということになる。
 そのお金を得るために、
「一生懸命に働くということが、美しい」
 ということであれば、お金儲けを生きがいにする人の何が悪いというのか?
 もっとも、政治家のように、国民から徴収する税金を貰っていながら、何もしない連中こそ、
「世の中の罪悪」
 といってもいいだろう。
 税金で食っているくせに、成果を上げず、賄賂だけをもらおうとする極悪政治家というのも、実際にいるのだからである。
「税金という固定の収入があり、それを国民からもらっているのだから、国民のために働くのは当たり前、しかも、自分たちは、
「国民のために働く」
 ということで、選挙に出て、国民のために働くことを誓い、選ばれたはずではないか。
 それを思うと、今の政治家は(今に限ったことではないが)、ロクな奴がいないといってもいいだろう。
 まだ、中学生ではあるが、学校の先生の中に、政府に対しての怒りをあらわにする人がいるのだが、他の生徒は、
「何、あの先生、授業に主観を持ってくるなんて、嫌だわ」
 といっている人がいた。
 確かに、手前みそな勝手な発想は、教育上よろしくないかも知れないが、可憐は、実際に冷静に見て、
「あの先生の言う通りだわ」
 ということを感じるので、別に嫌ではなかった。
「先生が言っていることは、いかにももっともだといえることだわ」
 と思うと、却って、そんな先生を煙たがって、先生の言っていることを聞かないのは、
「世相から目を逸らしているだけにしか見えない」
 と思うのだった。
 しかし、それは、あくまでも、
「大人の世界でのこと」
 であって、中学生であれば、そこまで政治や世の中のことを知る必要がないのではないか?」
 と感じるのだが、それはあくまでも、
「子供に対して」
 である。
 可憐も子供のはずなのに、政治のことを考えている時は、
「自分は大人なんだ」
 という意識を持って、政治の話に耳を傾けている。
 確かに、政治の話を聴いている時は、まったく自分のことを、
「大人なんじゃないかしら?」
 と思ったとしても、そこに、違和感はまったくない。
 そういえば、一度、父親から言われたことがある。
「お前は、いきなり、大人の発想になり、ムキになることがあるから、気を付けないといけない」
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次