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記憶の原点

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「すでに、最初から立場が違うので、目線自体が違っている」
 という発想である。
 これを、
「主従と考えるか、優劣と考えるかによって、見方が違ってくる」
 といえるだろう。
 もし、主従と考えるのであれば、お互いの立場は、二種類の考え方ができるのではないだろうか?
 額面上の、
「主従」
 という考え方となるならば、
「その視線は、お互いに目の前にあるもの」
 つまりは、
「上下関係として考えられる」
 ということだ。
 ただ、この場合は、お互いの関係性がかなりの結びつきでなければ、いけないだろう。
 封建制度などというのも、
「主従関係の代表」
 といってもいいだろう。
「領主が領民の生命や土地を保証する」
 ということから、今度は、
「領民が、領主に対して、領主が何か戦を起こす時は、自分たちが馳せ参じて、土地を守るために、命がけで戦う。さらに、与えられた土地で上がったコメなどを、年貢として、領主に納める」
 ということが義務となるのだ。
 つまり、
「お互いに権利があれば、義務もある」
 という考え方になる。
 そのためには、主従関係というのは、
「主が上であり、従は、下」
 という上下関係がしっかりしていないと、うまく行かないということになるのだった。
 この考え方は、
「お互いに見えているものが違う」
 つまり、
「見ている高さが違う」
 ということである。
「上から見下ろす場合の見え方と、下から上を見上げる時に見えている距離では、同じ距離であっても、まったく違った感覚になる」
 といえるだろう。
「上から見る方が、距離は遠く、下から見上げる方が、近くに見える」
 というものだが、
「高いところに対して、人間は、恐怖を感じる」
 という発想から来ているのだが、それもひょっとすると、
「この主従関係を、素直に受け入れる考えができるようになるまでの、道にあるものだ」
 と考えれば、
「見え方が違う」
 というのも当たり前だというものだ。
 確かに上から下を見た時、恐怖感を感じるが、この恐怖感は、自然と備わっていた。つまりは、
「遺伝的な要素が大きい」
 というものなのか、それとも、
「遺伝というわけではなく、成長の過程において、そのような発想が生まれてくるということであれば、それが偶然なのか、必然なのか、分からないだろう」
 といえる。
 しかし、これが、
「主従関係」
 というものの副産物のようなものだ」
 と考えるとすると、そこにあるのは、
「必然性」
 というものではないか?
 ということであろう。
「封建制度」
 のような、社会体制であったりするものは、その、
「上下関係」
 というものを、ある意味、必然として考えなければ、生きていけないというところにあるのだろう。
 さて、さらに、
「主従関係」
 というものを考えた時、
「SMの関係」
 というものも、れっきとした、
「主従関係」
 といえるだろう。
「SMの関係」
 と言われると、いろいろな誤解を受けたり、露骨に敬遠されたりということも多いだろう。
 何と言っても、
「サドマゾの関係」
 というと、
「性的興奮を満たす、一種の手段」
 という意味合いが濃いというもので、基本的には、
「アブノーマルな世界」
 というものだ。
 本当であれば、中学生の可憐に、そんな世界のことが分かるはずもない。それなのに、想像すると、頭に浮かんでくるものがあるのだ。
 それは、
「SMプレイそのもの」
 というものであったり、前提となる、精神論のようなものも、分かっているように思えるのだった。
「SMプレイに使う、縄であったり、ムチ、ロウソクなど。見たことなどあるわけもないくせに、まるで、自分が使ったことがあるかのような、おかしな発想になったりする」
 そんな状態における可憐は、
「前世の私は、SMプレイに興じている女だったのかしら?」
 と思えるくらいだ。
 普通だったら、
「そんなプレイを思い出したくなんかないはずだ」
 と思うのも当たり前だ。
「これから、やっと大人の階段を昇って行こうという自分に、何をアブノーマルな世界を思い出さなければならないのか?」
 ということである。

                 老人の助言

 そんな形の、
「縛られる」
 という感覚だが、それは、あくまでも、
「全体的な」
 という感覚によるもので、それを、
「時間」
 というもので縛ると、また考え方が違ってくるのではないだろうか?
 確かに、
「主従の関係」
 というのも、時間の感覚に従えば、
「何かある」
 と考えられるのではないだろうか?
「時間に縛られる」
 ということは、自分が望んでいる自由を束縛されるということで、そう考えると、
「時間=自由」
 という発想になってくるのではないだろうか?
 そうなると、時間も自由も、
「自分のものにしたい」
 と考えると、基本的には、難しいといえるだろう。
 考えられることとしては、
「人間は一人では生きていけない」
 ということがあるからであろう。
 人と助けたり助けられた李という、
「助け合い」
 というものが、なければ、
「自由も時間というものも、手に入れることはできない」
 といえるだろう。
 まわりを無視してそれらのものを手に入れようとすると、必ず誰かの思惑とぶつかってしまい、前に進めなくなってしまうことだろう。
 その意識を感じずにいたとすれば、その思いは、前が見えないだけに、普通であれば、強引に突っ切ろうとしてしまうことだろう。
 だが、実際に前が見えていれば、違う発想になっていたのかも知れない。姿が見えないということは、普段の見えている時の方が、前だけを見ていないに違いない。
 つまりは、
「前が見えることが大前提であり、前が見えないということは、一番に何を感じたいのかというと、目の前にいるものを全力で感じたいということになるのではないだろうか?」
 と、そんな風に考えてみると。まず最初に、
「自由や、時間というものは、目の前にあるものだ」
 と考えることだろう。
 それは、すべてのものというのは、
「安直に考えられる」
 ということになると考えるのだった。
「時間や自由というものは、いくらで買えるのだろうか?」
 ということを考えたことがあった。
「時間や自由をお金で買おうなどというのは、傲慢なんじゃない?」
 という人がいるが、果たして、そうなのだろうか?
 お金というものは、そもそも、
「物々交換の間に入る、モノの価値というものの、仲介に入るようなものだ」
 といえるのではないだろうか?
 つまり、
「お金というものがなければ、勝手な物々交換となれば、そこに生まれてくるのは、不公平である」
 ということだ。
 不公平というのは、その理屈が誰にも分からないとなれば、そこに必要なのは、一つの
「力関係」
 というものが力を持ってくる。
 そこに、武力であったり、秩序のない権力であったりするだろう。
 そうなると、それこそ不公平というものが、生まれてくるわけで、
「それを少しでも、和らげる」
 と考えるのだとすると、そこに存在しているのは、
「お金というものによる均衡」
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次