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記憶の原点

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「自分に何かの忠告をしてくれる、あの老人が現れた時だったのだ」
 といってもいいだろう。
 あれから、出てきたのかどうか分からないが、それだけに、自分の中で記憶として、色褪せる相手ではなかったのだった。
 この間、例の老人が、夢に現れたことがあった。
「あれは、今朝の夢だったのではない気がする」
 と、すでに、いつの夢だったのかということを感じるくらい、記憶が曖昧になっていた。
 そもそも、今朝の夢以外のことを、何日か経って思い出すというのは、おかしなことに思えた。
 今朝の夢のことでも覚えていないということが多いくせに、簡単に思い出せないということは、それだけ、
「夢における時系列というものが、曖昧だ」
 ということなのであろう。
 しかも、その時系列というのが、
「見た夢の中でのことなのか?」
 あるいは、
「目が覚めるにしたがって次第に忘れてしまった」
 と考えているものも含めてのことなのか、そのあたりのことが、自分でも、よく分からなくなっていたのだ。
 だから、夢の中での曖昧な時間の感覚というものは、
「時系列」
 ということだけではなく、
「夢の内容に感じている、リアルな部分での時間の長さ:
 というものと、
「実際に、意識が記憶として、格納しようとしている、記憶の格納に使われる時間の長さというものが、本当に比例しているものなのだろうか?」
 という考えであった。
 さらに、それらを組み合わせることによって感じるものとして、
「記憶として格納する部分と、現実に引き戻される時に、忘れていくというその長さは、比例しているのだろうか?」
 と考えさせられるのだ。
「曖昧という言葉だけで、片付けていいものなのだろうか?」
 と思い知らされる。
 そんな時に、目の前に現れた老人であるが、普段なら、
「こんな発想は、夢を見ている間に感じることではない気がする」
 というものであった。
 というのも、
「同じような夢を、一度目が覚めたにも関わらず、その続きとして見ることができるのだろうか?」
 というものであった。
 同じ老人が現れたといっても、同じ情景を、再度見ているわけではない。
「確か、以前に見たその時の夢というのは、肝心なところまで聞けなかったのではなかったか?」
 と思わせる。
「ただ、思い出せないだけなのか、本当に、肝心なところで目が覚めてしまったということなのか?」
 そんなことを考えていると、
「答えが出ないことを、曖昧さという言葉で片付けていいものなのだろうか?」
 と感じるのだった。
 ハッキリとは分からないが、
「夢を、最後まで見ていて、途中で目が覚めたと錯覚しているのではないだろうか?」
 と考える。
 これはあくまでも、信憑性のない曖昧なものなのだが、だからこそ、
「同じような夢を、しかも、その途中から見れる」
 などということが言えるのだろうか?
 それを考えると、
「もう一度、ここで同じ老人が出てくるというのは、それだけ、自分の中での潜在意識が、怖い夢と同等の、いや、それ以上の意識を、その老人に感じたのかも知れない」
 ということであった。
 ただ、問題は、
「その老人個人のことなのか?」
 それとも、
「その内容にあるのか?」
 ということではないだろうか?
 二度目の夢に出てきたその老人が、前に見た夢の老人なのかどうか、最初から分かっていたわけではない。
 ただ、
「はて? どこかで?」
 という感覚があったのは、間違いないような気がした。
 実際に、その老人が、
「あの時の老人に違いない」
 と感じたのは、その老人が喋り出した時だった。
「夢では、声が聴けるわけはないのに、喋っているという感覚があり、声の質を感じたような気がした」
 ということからだった。
 そもそも、それが、夢であると感じたのも、考えてみれば、不思議なことだった。
 その時のことが夢だったのかどうかは、
「目が覚めてから気づくもの」
 であって、
「だから、目が覚めるにしたがって。その日、夢を見ていた。見ていないということを感じるのだ」
 ということであった。
 つまりは、目が覚めている間には。
「夢を見たのかどうかすら、意識の中にはない」
 ということで、目が覚めてしまってから、
「夢とは絶えず見ているもので、ただ記憶にないだけのことだ」
 と考えるのだ。
 どちらの考え方も、一長一短の信憑性があり、記憶にあるかないかということとは、少し違っているのだろう。
 しかし、
「夢の中で、現実で感じるようなものを、感じることはない」
 ということから、
「色、声、形、臭い、味」
 などという、
「五感として感じるものを、味わうことはできない」
 と考えていたのだった。
 目の前に現れた老人が、その時、面白いことを言った。
「わしは、夢の中の住人だから、おぬしたち人間のように、時間に縛られる生活をしているわけでなない」
 というではないか。
「じゃあ、どういう生活をしているんですか?」
 と聞くと、
「それは、おぬしたちが、普段から自由として、考えていることじゃあ。だが、自由といっても、そのすべてではない。何しろ夢というものだって、すべてを。自分の思い通りにできるものではないだろう? 例えば、空を飛べないと思っているのに、夢の中であっても、結局。空を飛ぶことはできないものだ」
 というではないか。
「じゃあ、あなたも空を飛ぶことができないのですか?」
 と聞かれると、
「いいや、できるのさ。さっき言ったように、普段から、自由と思っていることだと言ったではないか。夢というのは、その自由に至りたいとは思うが、潜在意識に邪魔される形で、夢というのを見るから、五感で感じるものを味わうことができないということになるのさ」
 と、老人は言った。
「なるほど」
 と言いはしたが、どうにも納得に歯切れが悪い。
「どこまで意識をすればいいのか?」
 可憐は、老人が何を言いたいのか、考えてみることにした。
 いろいろ考えてみたが、
「自分の見ている夢というものと、老人のいる世界とでは、同じところなのだろうか?」
 と、まずは考えてみた。
 少なくとも、
「五感を感じることができる夢など、今までの夢というものに対しての概念とは違うものだ」
 ということを感じていた。
 老人がいう。
「時間に縛れる」
 というのは、どういうことなのだろう?
 起きている時であれば、
「限られた時間において、やることが多く、キャパオーバーなどという状況になった時のことではないだろうか?」
 と感じるのだった。
 だが、どうも、老人のいう、
「時間に縛られる」
 というのは、そういう発想ではないようだ。
 何と言うか、
「もっと幅の広い感覚」
 ということになるのだろう。
 この場合のような、
「縛る」
 という発想は、
「縛る側と、縛られる側」
 で、それぞれの見方が同じなのだろうか?
 さらに、その状態を表から見たりすると、どのように写るというのか、それぞれの立場からの目線において、かなり違ってくるような気がする。
 それぞれがお互いの目で見る時、まず考えられることとして、
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次