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記憶の原点

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 ということで、自分の態度を決めようとするのは、
「卑怯なことだ」
 といえるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、
 そんな、
「どっちつかずの態度」
 であったが、それは、
「どこまで冷静になれるか?」
 ということが、自分の発想となるのだろう。
「どちらが、本当の自分なのだろう?」
 ということを考えていると、
「可憐が自分をどのように考えているのか?」
 ということが分かってくるような気がする。
 中学時代までは、
「お前は人にバレてはいけないものを持っている
 と言われていたことを、ずっと気にしていた。
 小学生の高学年の頃から、
「バレてはいけないものとは何なのか?」
 と絶えず考えていた。
 それは、
「自分が意識として持っているものなのか?」
 それとも、
「意識して持っている」
 というわけではなく、
「無意識に抱えているものであり、それが、何かの反動で現れるものなのではないか?」
 と考えるようになると、それが、
「ハイド氏」
 ではないかということであった。
 ハイド氏は、決して表に出てくることはなく、
「いつか表に出る日を待ち望んでいる」
 ということであろうが、その時が本当に来るのだろうか?
 もし来るとすれば、その思いは、いかに表に出せばいいのか? いや、いかにして、表に出るべきものなのか?
 それによって、表に出るものと、後ろに隠れているものが別れてくる。
「表に出ているものは一つだけ、もう一つは必ず、裏に隠れているものであった」
 ということである。
 現代における、
「ジキルとハイド」
 まさに、可憐はそんな存在なのかも知れない。
 可憐は、最初、自分のことを二重人格だとは思っていなかった。どちらかというと、
「何かのつきものがついているのではないか?」
 と思っていたのだった。
 何か、オカルト的な発想であったが、そもそも、
「二重人格」
 というのも、どこか、オカルト的な発想でもあったのだ。
 この時に感じた、
「つきもの」
 というのは、何か、
「ご先祖様の霊のようなものではないか?」
 と思うのだった。
 小学生の頃、妖怪や、霊などというものが、流行っていた。
 昔のような、恐ろしいものではなく、
「学校の七不思議のようなものではあったが、都市伝説というよりも、何かの守り神的な発想があった」
 ということであった。
 小学生の頃など、
「トイレに、妖精のようなものがいる」
 というウワサが蔓延ったことがあった。
 そのウワサが飛び交った時、それらのウワサが、飛び火していたのか、
「学校の先生も、信じて疑わない」
 という状態だったようだ。
 だから、先生も、怖がっているわけではなく、むしろ、
「守り神だ」
 と思っていたようだ。
「昔の妖怪は、怖いものばかりではなく、いてくれるだけでありがたい妖怪だっていたんだ」
 という話だった。
 特に言われているのが、
「座敷わらし」
 と呼ばれるものであった。
 座敷わらしというのは、
「家に憑いている、家の守り神と言われるような、子供の妖怪」
 だという。
 それらの妖怪は、家にいることで、
「家の繁栄が守られている」
 と言われていて、その姿を見ると、
「大金持ちになる」
 と言われていた。
 しかし、実際に、そんな座敷わらしというのが見えたのだろうか?
 そのあと、座敷わらしがいるという気配がなかったりすると、家が落ちぶれてしまうという。
 それを考えると、確かに、家が落ちぶれたのは、
「座敷わらしがいないからだ」
 といえるだろうが、逆に、座敷わらしが、いなくなったのかどうかというのを、誰がどのように証明するというのだろうか?
「座敷わらしというのが、いなくなったことで、家が潰れたのだ」
 ということが実しやかに叫ばれるようになったから、座敷わらしに対しての評判が、凝り固まった形になって表れたのではないだろうか?
 そんなことを考えてみると。
「家が繁盛するかどうかということを、何かの理由にしようとすることで、担ぎ上げられたのが、座敷わらしだということになる」
 ということなのだろう。
 座敷わらしのように、
「いい妖怪」
 も確かに少しはいるだろうが、どうしても、妖怪というと、ロクでもない妖怪が多いということになるだろう。
 似たような話は日本だけではなく、海外にもある。
「ジキルとハイド」
 という話も、このあたりから結びついたのではないだろうか?
 自分が、
「二重人格」
 であったり、
「何かつきものがついている」
 ということであったりと、オカルトチックであったり、性格的なものが影響しての、普段から、うまく行かないものが、
「どこまでが自分の正体なのか?」
 と考えているうちに、今度は、
「自分が何か病気なのではないか?」
 と考えるようになった。
 中学生なので、精神疾患といっても、正直よく分かっていない。図書館で、本を読もうとしたが、結構難しい。
 かといって、他の人、ましてや、自分の直近としての、親や学校の先生に聞くというのは、憚る気がした。
 そんな話をして、
「本当に、どこかおかしい」
 と思われてしまうと、自分でも、どうしていいのか分からなくなってしまう。
 それを思うと、
「直近の人に相談もできない」
 と考え、子供心に、
「孤立してしまった」
 と思えてしまうことだろう。
 確かに、精神疾患というもの、基礎的なことが分かっていないと理解できないこともあった。
 図書館で、少し精神疾患に関しての本を読んでみた。
「主に、気になったのが、鬱病関係の本」
 だったのだ。
 鬱病というのが、どうして気になったのかということであるが、
「二重人格性」
 というもの、特に、
「ジキルとハイド」
 を考えた時の、
「正反対の性格を併せ持つ」
 というものが自分にあると考えたからだった。
 特に最近感じるのは、
「夢を見た時、目が覚めるその瞬間に、夢というものを忘れていく中に、今回の夢が、ジキルなのか、ハイドなのか?」
 ということを考えているということであった。
 夢の内容を、ところどころで感じるのであるが、
「どうしても、思い出せない夢と、忘れることができない夢」
 というものがあることに気が付いてきたのだった。
「最初に感じたのは、思い出せない夢というものが、本当の自分なのだとすれば、忘れることができないものは、
「その本当の自分を思い出すことができるためのものではないか?」
 というものではないかということであった。
 もちろん、本当の自分というものを、自分で意識していないということなのは、
「思い出してはいけないものだ」
 ということなのかも知れない。
 思い出すということが、いかに、自分の中で大変なことなのかということを考えると、
「それを、夢というものが、解決してくれるのではないか?」
 と思うと、
「夢というのも、おろそかに考えてはいけない」
 と思うようになったのだ。
「夢を見ることが、いかに大切なことなのか?」
 ということを、おぼろげに感じさせるようになったのは、内容をほとんど忘れてしまっていたが、
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次