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記憶の原点

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「事故に対して、それほど、恐怖感というものを持っていたわけではないのではないか?」
 ということを感じたのだ。
 警察の尋問も、ただの、
「第一発見者への聞き込み」
 という程度である。
 これが、事件であれば、もっと突っ込んだ質問が飛んだことであろうが、それだけのことではないに違いない。
 今回の、
「可憐が発見した」
 倒れている人物は、事故なのか、事件に巻き込まれたのだろうが、今のここだけでは、どっちなのかということは分からなかった。
 だが、可憐は自分が、父親と遭遇した事故とは違って、今回はどちらか分からない状態であるにも関わらず、あの時と変わらない、
「まったく恐怖を感じない」
 という思いに、
「自分は大丈夫なのだ」
 という意識があるからに違いない。
 可憐には、少し不思議な能力があった。
「自分が、記憶を失くしたという思いを持っている人が近くにいると、センサーのようなものが働いてその人が思っていることが分かる」
 という感覚であった。
 そのくせ、
「感情というものが、冷めている」
 と感じるのだ。
 自分の中で、記憶を失くした感覚が、
「こんなにも、たくさん渦巻いている」
 という思いを感じさせられたのだ。
「冷めている感情」
 というのは、例えば、
「誰か身内が死んだら、普通なら悲しいと思うはずだ」
 ということであるが、
「一緒に住んでいたペットが死んだら、涙を流して悲しい気持ちになるのに、家族の誰かが死んでも、自分は悲しくならないのではないか?」
 という思いが強かった。
 一度、母親が、事故に遭って、救急車で運ばれたことがあったが、
「覚悟しておいてください」
 と言われ。まわりは、皆悲しんでいたが、母親は、結局助かったのだ。
 ちょっと拍子抜けした感覚があったが、また違う時、やはり、母親が、病気になり、その時は、医者から、またしても、
「覚悟しておいてください」
 と同じセリフを言われた。
 それこそ、
「デジャブではないか?」
 と思ったのだが、
「事故と病気の違いこそあれ」
 ということであったが、そこからが少し違った。
 もちろん、家族は母親のそんな状況を聞いて、皆、泣くだけ泣いたのだが、その後で、病室にいくと、今度は、まったく涙を流さずに、あっけらかんとして、笑っているのだ。
「お母さんに悟られないように」
 ということは、子供の自分でも分かったが、さっきまであんなに泣いていた人が、
「急に笑うなんてこと、そんな簡単にできるものなのか?」
 と考えたのだ。
 その時、可憐は、
「なんて、白状なんだ」
 と感じた。
 だが、そう感じた自分ではあったが、だからといって、何もできるでもなし、家族のように、
「泣くだけ泣いて、今度は、母親の前で悲しい顔はしない」
 という覚悟のいることなどできるはずがなかった。
 その分、
「私が、あの人たちよりも、冷めているということなのかしら?」
 と、疑問にしか思えないのだった。
 確かに、家族は、
「覚悟」
 というものを自分で感じながら、さらに、相手のことだけを考えて行動している。
 それが、人間というものであり、思いやりというものだ。
 そんなことを考えてみると、
「覚悟というものがどういうものなのか分からない自分には、自分が白状になるのはしょうがないのだろう」
 と考える。
 ただ、どうしても、
「とことん泣いて、覚悟ができれば、悲しい顔ができないと思う相手の前でも、ずっと笑っていることができる」
 というのが、人間というものだと、理屈の上で、分かるようになってきたような気がするのだった。
「何が、悲しいというのか?」
 まずは、そこからが問題なのではないだろうか?

                 可憐の正体

 可憐は、本当に家族のことを、
「心配した」
 という意識はなかった。
 というよりも、
「私は、人間というものに対して、
「悲しい」
 という態度を取ったことはない。
 いや、それは、少し言葉足らずだったかも知れない。
 というのも、
「ドラマや、本や、マンガなどでは、人が死んだりした時、悲しいという感情を抱いたことがあった」
 というのであった。
 特に、恋愛ものなどでは、感動したものだ。
「まだ、中学生なのに?」
 と思われるかもしれないが、
「もう中学生だから」
 というのである。
 小学生の頃と、まったく違った感覚になっている可憐は、なぜか、リアルな友達や、家族に対しては、とても冷たかった。
 友達が死んだときは、少し悲しかったような気がしたが、自分が悲しい気分になる前に、まわりの人が、
「オンオン泣くものだから、こっちが泣く隙を与えないとでもいうのか、悲しむ暇もなかった」
 といってもいい。
 家族の時もそうだった。
 他の家族が泣くものだから、先に泣かれてしまうと、完全に興ざめしてしまうのだった。
「本当は、そんなくだらない先陣争いのようなものではないはずなのに」
 と心の中で思うのだが、そこで悲しんだとすると、
「自分の気持ちが許さないのだ」
 ということである。
 だが、それは、家族に対してだけだった。
 家で、飼っていた犬が死んだ時、家族も皆悲しんでいたが、そんなまわりの憚りもなく、泣きわめくようにしていたのが、可憐だったのだ。
 確かに可憐が一番面倒を見ていたし、可愛がってもいた。
 癒しももらっていたし、その思いが、犬にも通じていたのだ。
「家族が死んだ時、涙一つ見せなかったくせに」
 と、さぞかし思われているだろう。
 と感じるのだが、そこは、どうしようもない。
「犬が死んだことが、本当に悲しいんだ」
 というのだが、
「じゃあ、家族が死んだ時は?」
 と言われたとすれば、
「そんなもの関係ないわ」
 と言ったに違いない。
「どうして、家族が死んで悲しくないのか?」
 と聞かれると、たぶん、
「悲しくない」
 と答えるだろう。
 まわりの反応というのも、しかるべきなのだろうが、それ以外にも理由があるような気がする。
 それを考えると、まわりが、
「どうしてあの子は、あんなに天邪鬼なのかしら?」
 と言われているという。
 つまり、
「正反対の感情が生まれているのかも知れない」
 と感じるが、果たして、本当にそうなのだろうか?
「犬との違いをいかに考えるか?」
 ということが、可憐の正体に繋がっているのかも知れない。
「感情が正反対」
 ということは、
「天邪鬼だ」
 ということと同じ発想で、
「二重人格なのではないか?」
 ということにもつながっていく。
「ジキルとハイド」
 という話を読んだことがあるが、
「まさにそれではないか?」
 と、可憐は感じるのだった。
 二重人格というのは、自分ではなかなか分からないもので、
「ジキル博士」
 と呼ばれる、心優しく、そして、頭の良い人間は、本当の可憐と同じなのだろうか?
 ということである、
 もし、そうでないのだとすれば、卑劣で、
「悪の限りを尽くす」
 というべき、
「ハイド氏」
 と同じだとすれば、動物や、架空のものに対しては、気の毒に感じるのに、リアルな付き合いのある人間に対しては、絶えず、
「他の人と自らを比較する」
作品名:記憶の原点 作家名:森本晃次