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「三すくみ」と「自己犠牲」

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「自己犠牲というのも、この耽美主義という考え方に照らし合わせてみると、納得がいくのではないか?」
 とも考えられる。
「自己犠牲」
 というものを、優先順位をすべてここにしてしまえば、この言葉だって、
「美」
 というものの象徴であるかのように置き換えられる。
 それは、
「カミカゼ」
 というもの。あるいは、
「ハラキリ」
 というものを、自己犠牲だと捉えたとすれば、それを優先させて、自分たちに都合よく操れるとでも思っている人間にとっては、それこそ、
「洗脳」
 ということになるのではないだろうか?
 人から洗脳されることで、
「いかに自分を肯定できるか?」
 と考えると、
「自己犠牲」
 というものが、
「これほど素晴らしいものはない」
 という結論に結びつけないと、自分を納得もさせられず、それが相手にとっても、
「これ以上の都合のいいことではない」
 ということにさせるのであった。
 そんな、
「自己犠牲」
 を強要する世の中ではない、今の
「民主主義」
 という世界であっても、真の意味dの民主主義などありえない。
 実際に、社会というと、最近実しやかに言われることとして、
「ブラック企業」
 というものがある。
 労働基準局が決めている、基本カリキュラムにまったくそぐわない労働条件で働かせる会社。
「セクハラ」
「モラハラ」
「パワハラ」
 などが、横行している会社が、本当に多かったりする。
 要するに、昭和の頃のような根性論であったり、今の字だ相にそぐわないことをしていては、いけないということを分かっていない人がいまだにいるということであろう。
 きっと、昭和の頃の上司に鍛えられた人が、今上司になっていて、
「自分もやらされたんだから、部下もできる」
 という発想の元なのかも知れないが、
「基本的に、自分と育ってきた環境が違う」
 ということを理解できない人が、部下にも、
「自分と同じはずだ」
 という決めつけを行い、自分ができてきたことができないのは、
「その人が悪い」
 と決めつけることが、最大の過ちなのではないだろうか?
 いわゆる、
「ハラスメント違反」
「コンプライアンス違反」
 と呼ばれるものは、今の時代の、最大の社会問題であり、
「悪の中の悪」
 と言っていいのではないだろうか?
 実際に、それで追い詰められ、脅迫観念に駆られることで、そのことが、一番の問題であるということに気付かない、
 あるいは、
「気づいているのかも知れないが、見てみぬふりをする」
 という、救いようのない、人間のクズのようなやつも絶対数いるのは、嘆かわしいことであった。
 そんな連中の、自分の中での正当性、それがどれだけあるのか分からないが、少なくともあるとすれば、
「自己犠牲」
 という考え方はあると思う。
 自分に爆弾を抱かせて、戦闘機のまま突っ込んだり、爆弾の匣を持って、戦車の下に潜り込んで爆死する
 などという戦法は、本当にバカげているというものだ。
「過激派による、自爆テロ」
 も同じような、
「自己犠牲」
 である。
 たぶん、宗教が絡んでいると、
「死んだら、極楽のようなところに行ける」
 などと言われて、死んでいくんだろうが、だったら、なぜ、
「命令する人が、自分からやろうとしないんだ?」
 ということである。
 もっといえば、基本的に、宗教のほとんどは、
「人を殺めてはいけない」
 という教えではないか。
 細川ガラシャだって、石田三成の、
「人質作戦」
 の間に、
「人質になるくらいだったら、自ら命を」
 ということであったが、
「自殺は許されない」
 ということで、家臣に殺させるということをしているではないか?
 これもおかしな発想で、
「自殺を許さない」
 ということで、家臣に殺されるとあるが、
「じゃあ、家臣の自分を殺す罪は、ないとでもいうのか?」
 あのキリスト教の教えは、キリスト教徒だけのものだとすれば、おかしなことになる。
 それこそ、
「切る外今日の信者でなければ、救われない」
 とでもいうのだろうか?
 何と言っても、あの戒律にしても、自殺もダメだということで、他人に殺させるというのは、欺瞞ではないか。
「切腹における介錯」
 とは違うのだ。
 介錯の場合は、切腹だけでは苦しむ時間が長いので、苦しまないように、首を切ってあえるという、一種の、
「人助け」
 なのだ。
 そうではなく、ガラシャは、家臣に、
「殺させた」
 のである。
 いわゆる、殺人教唆。この場合は、自殺なので、
「自殺教唆」
 と言ってもいいだろう。
 法律であれば、
「教唆は、殺人と同等の罪」
 ということになっているのだ。
 まさにその通りである。
 自分が、どのようなことになろうとも、周りの人を助けることで、
「死んでから、極楽にいける」
 というものだ。
 これではまるで、
「自分が極楽にいくためには、家臣を地獄に叩き落してもいい」
 ということになるのではないか?
 細川ガラシャの物語は、
「夫忠興の足手まといになりたくない」
 という思いと、
「キリスト教の戒律」
 に悩んだうえでの、切実なる選択という意味での、
「同情物語」
 のようになっているが、よく考えれば、この場合は、実際には、
「ツッコミどころ満載だ」
 と言ってもいいだろう。
 確かに、
「夫忠興への忠誠心から出た、自己犠牲」
 というのはあるだろうが、それ以外は、とても容認できる内容ではない。
 相手はすでに迫っていたので、考えている時間はなかったのかも知れないが、何も死ぬことはないではないか?
 もし、人質になったとしても、生きてさえいれば、夫とまた幸せになれることだってあるはずだ、
 死んでしまえばそれまでなのだ、これでは、まるで、大東亜戦争の時にあった、
「戦陣訓」
 と同じではないか。
「生きて虜囚の辱めを受けず」
 という言葉の下、玉砕を重ねた日本軍と民間人、フィリピン、グアム、サイパン、沖縄などの犠牲は、まるで、細川ガラシャと同じではないか。
 まさかとは思うが、この戦陣訓の教育の教材として、このガラシャの物語が使われていたのだとすれば、これ以上の罪はないと言っていいかも知れない。
 そういう意味での自己犠牲というものを、当時の戦争が、
「過去の教訓:
 として教え込んだ位時代があった頃から、いくら敗戦によって、連合国から、
「みんしゅしゅぎ」
 を押し付けられたとしても、すべての人間が、
「押しつけの民主主義」
 というものを、本当に理解しているのかというのも難しいものだ。
 当時は、何といっても、
「日本を、軍国主義にしてはいけない」
 ということが命題であっただろう。
「日本人は死を恐れずに戦う」
 ということを身をもって知ったはずである。
「カミカゼ特攻隊」
 など、その代表であり、
「玉砕:
 なども、そうである。
 武器弾薬もほとんど尽きてしまった軍隊における軍人、さらには、一緒に敗走していた民間人の日本人、それらの、島に残った、
「生き残っている島に残った日本人全員が、決定した時間、避難している場所から一斉医出てきて、アメリカ軍に向かって、ただ歩くだけである」