「三すくみ」と「自己犠牲」
腕や頭など、至るところに包帯を巻いた人たちが、見絞らしい治療痕を見せながら、まるで、ゾンビのように、ただ近づいてくるのだった。
「何だ、これは?」
とアメリカ兵もビックリしたことだろう。
自分たちも逃げるわけにはいかない。突っ込んでくる日本人に向かて、弾薬の雨あられである。
前の方の人から当然弾丸に当たって倒れていく。後ろからの人は、その死体を踏まないようにと下を向きながら歩こうとすると、次の瞬間、弾丸に当たって、自分が倒れることになる、
玉砕が、夜間に行われるとすると、
アメリカ軍は、まず、照明弾を打ち、まわりを明るくすることだろう。
すると、ゾンビが、明るさの下に映し出されることだろう。放心状態で、見上げる彼らは、もう死ぬということに果たして恐怖があったのだろうか??
というのも、すでに、日本軍は、とっくの昔に組織的な戦闘が行えるほどではなくなっていて、とにかく、上陸してきた米軍を避けながら、どんどん、ジャングルの奥地に逃げ込んでいく。
それでも、最初は、ジャングルを使ったゲリラ戦を展開できたかも知れないが、米軍の空襲であったり、火炎放射器のような、
「圧倒的な火力の前には、食料だけではなく、武器弾薬の尽きた日本軍に抵抗などできるわけもない。
元々、海に囲まれていて、その海を埋め尽くす、アメリカ軍の艦隊に対して、補給船団が、入り込めるわけがない。
いや、それ以前に、日本から、輸送船団が送られてくるわけもなかった。
もし、送られてきているとしても、途中で米軍の攻撃に遭い、護衛の戦闘機や艦隊すらほとんど残っていない日本軍に、援助物資を運ぶことなどできるはずもなかった。
戦争もこの頃になると、国内も、物資不足が、究極の状態だった。
食料や、生活必需品なども、そのほとんどが、配給制で、しかも、その配給も、
「いつ来るか分からない」
というような状態だったではないか。
さらに、そんな状態において、
「金属回収令」
なるものが出された。
当時は、戦闘員の不足によって、それまでは、免除されていた。大学生などの徴兵が、行われるようになり、いよいよ、国民も、
「何かおかしい」
と思ったかも知れない。
さらに、それどころか、
「今度は、兵器を作るための、金属が足りない」
ということで。家庭用品の鍋なども、国から回収されるというようなことになっていたのだ。
しかも、何と罰当たりなことに、
「寺の鐘まで、供出しんあいといけない」
ということになり、
「どれだけ付属しているのか?」
ということを考えれば、
「この戦争の先行き」
というものが怪しいということは、国民も分かってきていることだろう。
何といっても、最初は、
「日本は、資源を求めて、満州を電撃的に平定し、そこに、満州国が建国された」
ということから始まった。
本来なら、そこを植民地とすればいいものを、日本は、そこに、満州民族の国家をつくらせ、さらに、
「五族共存」
という。、
「満州、朝鮮、モンゴル、漢民族、そして日本人」
による、共和の国を建設し、さらに
「王道楽土」
というスローガンを打ち立てたのだ。
アジア的な理想国家を、西洋による武力による統治ではなく、徳を持っての統治をおこなうという、
「つまり、植民地ではない」
ということでの、満州開拓に乗り出した。
当時の日本には、
「満州を手に入れなければいけない理由」
が存在したのだ。
「中国政府による、反日運動によっての、暗殺事件などの、治安の悪化」
さらに、
「満州鉄道に並行する形で、中国側は鉄道会社を設立」
それによって、日本の経済は赤字に転じる。
さらに、もっと大きな切実な問題は、
「日本本土における、食糧問題の悪化」
だったのだ。
当時の日本は、東北地帯の不作であったり、人口の球速な増加によって、日本人は、深刻な食糧危機を目の前に迎えていた。
「娘を売らないと、その日の食料が手に入らない」
ということで、
「人身売買」
というものが公然と横行した時代だった。
そこで、考えられるのが、
「どこか外国への移住と、その土地を開拓することでm新たな資源の獲得」
というものを画策するしかなかったのだ。
その白羽の矢が、満州に当たったのだ。
満州、モンゴル関係の、中国側からの問題として、
「満蒙問題」
の解決が急務とされていた。
何しろ、
「満蒙は日本の生命線」
と呼ばれていたのだから、ここの解決は最優先であった。
それと、日本国内の食糧問題という、切実なる、すでに起こっていた問題を一気に解決するものとして、画策されたのが、
「満州事変」
であった。
中国側が提訴したことで、満州国の是非のために、
「リットン調査団」
が組織されたが、彼らは、戦闘の事実だけを調査し、その歴史的背景については、見ていなかったからか、
「満州国は、関東軍の自作自演」
という、形だけの報告を行い、国連決議で、大敗を喫した日本は、それを不服として、
「国際連盟」
からの脱退を決定したのだった。
これによる、日本の世界的孤立は決定的になったのだ。
何と言っても、植民地を世界に持っているそれぞれの国が、よく反対できたものと言えるが、やはり、
「王道楽土」
という考え方が、植民地を持つ先進国からは、容認できるものではなかったということであろう。
その言葉が、大東亜戦争においての、
「戦争に突入した理由としてのスローガン」
となった言葉である、
「大東亜共栄圏の建設」
ということに繋がっていくという意味での、
「一貫した流れ」
となり、本来なら、歓迎されて、アジアの国々から奨励されるべきのような感じがあるが、実際のスローガンと、やっていることに、大きな開きがあり、さらに。それが、
「誤解を生む」
ということになるのか、それとも、その開きを、
「野心」
と見抜かれて、
「日本は信用できない」
ということで、アジア諸国からも、
「日本は侵略者」
とみられてしまったのかも知れない。
しかし、時代は煤で閉まって、その当時、何が真実だったのかということは、もう分かりかねることはあるだろう。
だが、そんな中、今は当時の日本を、
「アジアを侵略した国」
というレッテルを貼られ、
「愛国心」
というものを口にしたり、政治家などが、
「靖国神社」
と訪問したというだけで、アジア諸国から、総スカンを食らってしまうという、
「歪な社会」
となっている。
少なくとも、あの世界各国が、列強の植民地となっている状況で、
「大日本帝国」
において、
「国を守ったといってもいい」
という人たちが祀られている慰霊碑に参拝することの何がいけないというのだろうか?
確かに、
「勝てば官軍」
で、
「勝者の理論」
として押し付けられた民主主義によっては、
「靖国参拝」
というのは、容認できるものではないだろう。
少なくとも、アジア諸国には許せないことであろうが、日本がやろうとしたことは、かなり強引だったかも知れないが、そこまで悪いことだったのかどうか、結果としては、すべてが、
「勝者の理論」
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次