小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

「三すくみ」と「自己犠牲」

INDEX|8ページ/19ページ|

次のページ前のページ
 

 もちろん、相手国にも被害が出るが、
「正当な戦闘」
 において、
「相手をせん滅させるのが、戦争だ」
 ということになると、
「カミカゼ特攻隊」
 というのも、ある意味、戦争の方法としては、正当だといえるのではないか?
 そんな戦争で、相手に犠牲者が出るのは当たり前で、
「戦闘」
 の作戦としては、
「カミカゼ特攻隊」
 ということも、
「自爆テロ」
 というものも、見た目は変わらないだろう。
 しかし、カミカゼ特攻隊というのは、あくまでも、
「国家間の戦争」
 つまりは、国際法に乗っ取った戦争であれば、良し悪しは別にして、
「祖国のために」
 あるいは、家族のため、いや、スローガンとして、の建前以外に、
「家族のため」
 という、人間であるからこそに考えが至るということではないだろうか?
 それを考えると、
「自爆テロ」
 というのは、影で暗躍していて、国家間の正当な戦争とは違う。
 あくまでも計略として、
「ある一定数の敵を、さらには、しかも、一般市民を攻撃するという。それだけでも国際法違反である」
 ということになるだろう。
 そういう意味で、
「自爆テロ」
 に関しては。本来なら罰せられるべきなのだが、何せ相手は、国連加盟国というわけではない、
 そういう意味では、
「国連というものは、完全に無力なものだ」
 と言えるのだろう。
 日本とアメリカの、
「大東亜戦争」
 が起こったのが、
「帝国主義時代の終盤」
 と言える。
「第二次世界大戦」
 という時代だったが、それから、世界は、
「東西冷戦」
 という、ところどころでの、局地戦が行われた。
 最初の頃は、
「独立戦争」
 というものが多く、世界大戦が終わったことで、植民地諸国が、宗主国に対して、独立運動を起こし、
「主権を回復」
 した時代から、今度は、
「朝鮮戦争」
「ベトナム戦争」
 などのような、
「代理戦争」
 が行われるようになったのだ。
 その理由としては、一目瞭然であるのだが、
 それこそが、
「核による抑止力」
 だと言ってもいいだろう。
 アメリカに続き、ソ連も核を持った。
 だから、力は均衡したのであった。
 こんな時代を、
「東西冷戦」
 と呼んだのだ。
 しかし、ソ連が崩壊し、社会主義国家が破綻していくと、
「国家間での戦争」
 という、
「大義名分」
 というものが持てる時代ではなくなってきた。
 それ以降は、
「国家間における戦争」
 はなくなり、ゲリラ戦のような、テロ行為が蔓延するという、
「国連や国際法の介入できる戦闘ではなくなった」
 という意味で、
「泥沼の時代に入った」
 ともいえるのではないだろうか?
 そんな、
「自己犠牲」
 というものを考えていると、今の時代は、ある意味、嘆かわしく感じる。
 確かに、自己犠牲というものを、
「美」
 のように感じるという感情もあるが、実際にそんなことをする人など見受けられるわけもない。
 特に、
「家族愛」
 などというのも、あってないようなものではないか。
 もちろん、ひどい例で、極端ではあるが、いろいろなところから、
「親が子供を虐待している」
 などというニュースが聞えてくる。
 家庭相談員が、出かけていっても、相手の親が証拠を見せない。そのくせに、相談員が帰ると、子供を風呂場に連れていき、水風呂に付けたり、身体中に痣ができるほど、叩いたりする。
 もちろん、肌が露出しているような腕や足、顔などを傷つけたりはしない。気づかれないようなところを叩くのだ。
 何とも卑劣で、恐ろしく行動であろうか?
 親はそれを、
「しつけだ」
 という。
 何がしつけなものか。
「子供をいたぶることでしか、ストレス解消できないやつに、親を名乗る資格などあるわけはない」
 ということである。
 身体の傷はしばらくすれば、取れるだろうが、心についた傷は、下手をすれば一生消えない。
 消えたように見えても、ふとしたことで現れて、ずっと、彼を傷つけることになってしまう。
 それだけの、激しいトラウマに見舞われ、しかも、その痛みは、当然のことながら、
「本人にしか分からないのだ」
 ということである。
 そんな時代に入ったことを、自覚している人、分からない人。その違いは、
「当事者なのか、そうではないのか?」
 という違いなのであった。

                 三すくみの関係

「行ってきます」
 と、いつもであれば、かなり遠くにまで聞こえるような大きな声を出して、通りに出る川上信二は、いつの頃からだろうか? 出かける時、家の誰にも声を掛けることなく出かけるようになった。
 そのことを誰も気付いていなかった。もちろん、当の本人である。信二は。分かっているのだろうが、家族も気付かない。
「家の仕事が忙しい」
 というのは分かるが、数年前までであれば、声を掛けずにでかけようものなら、
「ちゃんと出かけるなら、声を掛けなさい」
 と言われていた。
 そういって声を掛けられることが当たり前ということになり、子供の方も、
「それは当然のこと」
 として、考えていることだろう。
 だが、いつ、どこでどうなったのか、親が声も掛けてくれなくなった。
 それどころか、夫婦間でも、信二が知っているところでは、ほぼ会話などない。
 以前は、会話というほどのものではなかったが、声を掛けるのは当たり前のこと、
「何しろ、自営業で、声を掛け合うことも仕事の一環だ」
 と言っていたのは、当の父親だったのだ。
 この家は、城下町にある老舗の酒屋の方。
 昔からの有名老舗で、例の、
「幕府に献上する酒を収めている」
 というお店だったのだ。
 信二は、この時、中学三年生であった。親にちゃんと挨拶をして出かける時は、学校に行くのが好きだったのだが、今では、学校に行くのが怖くて仕方がない。
 そう、信二は、学校で一部の人間から苛めに遭ってきたのだ。
 信二は、
「別に苛められることなど何もしていないはずなのに」
 と思っていたが、苛めを行っている連中は離してくれない。
 しかも、理由に関しても、
「お前の自己犠牲で、俺たちが満足できればそれでいいんだ」
 というではないか?
 信二とすれば、
「自己犠牲? なんだそれ」
 としか思っていない。
 要するに、
「理不尽な理由しか、やつらは言わないんだ」
 としか思っていない。
 確かに、自己犠牲などという漠然とした言葉で苛めを受けているなど、まったくの理不尽である。
 本当に、
「自己犠牲」
 というのは何なのか?
 まず考えたのが、
「カミカゼ特攻隊」
 であった。
 歴史が好きな信二は、
「歴史というものが、塩犠牲のもとに成り立っている」
 ということが分かっているような気がした。
 確かに、見ていると美学であるし、
「耽美」
 でもある。
「耽美主義」
 という言葉がある。
 これは、
「道徳であったり、モラルなどというものよりも、最優先されるものが、美というものである」
 という世界の考え方である。
 芸術作品などにおいても、いえることで、