「三すくみ」と「自己犠牲」
もちろん、相手国にも被害が出るが、
「正当な戦闘」
において、
「相手をせん滅させるのが、戦争だ」
ということになると、
「カミカゼ特攻隊」
というのも、ある意味、戦争の方法としては、正当だといえるのではないか?
そんな戦争で、相手に犠牲者が出るのは当たり前で、
「戦闘」
の作戦としては、
「カミカゼ特攻隊」
ということも、
「自爆テロ」
というものも、見た目は変わらないだろう。
しかし、カミカゼ特攻隊というのは、あくまでも、
「国家間の戦争」
つまりは、国際法に乗っ取った戦争であれば、良し悪しは別にして、
「祖国のために」
あるいは、家族のため、いや、スローガンとして、の建前以外に、
「家族のため」
という、人間であるからこそに考えが至るということではないだろうか?
それを考えると、
「自爆テロ」
というのは、影で暗躍していて、国家間の正当な戦争とは違う。
あくまでも計略として、
「ある一定数の敵を、さらには、しかも、一般市民を攻撃するという。それだけでも国際法違反である」
ということになるだろう。
そういう意味で、
「自爆テロ」
に関しては。本来なら罰せられるべきなのだが、何せ相手は、国連加盟国というわけではない、
そういう意味では、
「国連というものは、完全に無力なものだ」
と言えるのだろう。
日本とアメリカの、
「大東亜戦争」
が起こったのが、
「帝国主義時代の終盤」
と言える。
「第二次世界大戦」
という時代だったが、それから、世界は、
「東西冷戦」
という、ところどころでの、局地戦が行われた。
最初の頃は、
「独立戦争」
というものが多く、世界大戦が終わったことで、植民地諸国が、宗主国に対して、独立運動を起こし、
「主権を回復」
した時代から、今度は、
「朝鮮戦争」
「ベトナム戦争」
などのような、
「代理戦争」
が行われるようになったのだ。
その理由としては、一目瞭然であるのだが、
それこそが、
「核による抑止力」
だと言ってもいいだろう。
アメリカに続き、ソ連も核を持った。
だから、力は均衡したのであった。
こんな時代を、
「東西冷戦」
と呼んだのだ。
しかし、ソ連が崩壊し、社会主義国家が破綻していくと、
「国家間での戦争」
という、
「大義名分」
というものが持てる時代ではなくなってきた。
それ以降は、
「国家間における戦争」
はなくなり、ゲリラ戦のような、テロ行為が蔓延するという、
「国連や国際法の介入できる戦闘ではなくなった」
という意味で、
「泥沼の時代に入った」
ともいえるのではないだろうか?
そんな、
「自己犠牲」
というものを考えていると、今の時代は、ある意味、嘆かわしく感じる。
確かに、自己犠牲というものを、
「美」
のように感じるという感情もあるが、実際にそんなことをする人など見受けられるわけもない。
特に、
「家族愛」
などというのも、あってないようなものではないか。
もちろん、ひどい例で、極端ではあるが、いろいろなところから、
「親が子供を虐待している」
などというニュースが聞えてくる。
家庭相談員が、出かけていっても、相手の親が証拠を見せない。そのくせに、相談員が帰ると、子供を風呂場に連れていき、水風呂に付けたり、身体中に痣ができるほど、叩いたりする。
もちろん、肌が露出しているような腕や足、顔などを傷つけたりはしない。気づかれないようなところを叩くのだ。
何とも卑劣で、恐ろしく行動であろうか?
親はそれを、
「しつけだ」
という。
何がしつけなものか。
「子供をいたぶることでしか、ストレス解消できないやつに、親を名乗る資格などあるわけはない」
ということである。
身体の傷はしばらくすれば、取れるだろうが、心についた傷は、下手をすれば一生消えない。
消えたように見えても、ふとしたことで現れて、ずっと、彼を傷つけることになってしまう。
それだけの、激しいトラウマに見舞われ、しかも、その痛みは、当然のことながら、
「本人にしか分からないのだ」
ということである。
そんな時代に入ったことを、自覚している人、分からない人。その違いは、
「当事者なのか、そうではないのか?」
という違いなのであった。
三すくみの関係
「行ってきます」
と、いつもであれば、かなり遠くにまで聞こえるような大きな声を出して、通りに出る川上信二は、いつの頃からだろうか? 出かける時、家の誰にも声を掛けることなく出かけるようになった。
そのことを誰も気付いていなかった。もちろん、当の本人である。信二は。分かっているのだろうが、家族も気付かない。
「家の仕事が忙しい」
というのは分かるが、数年前までであれば、声を掛けずにでかけようものなら、
「ちゃんと出かけるなら、声を掛けなさい」
と言われていた。
そういって声を掛けられることが当たり前ということになり、子供の方も、
「それは当然のこと」
として、考えていることだろう。
だが、いつ、どこでどうなったのか、親が声も掛けてくれなくなった。
それどころか、夫婦間でも、信二が知っているところでは、ほぼ会話などない。
以前は、会話というほどのものではなかったが、声を掛けるのは当たり前のこと、
「何しろ、自営業で、声を掛け合うことも仕事の一環だ」
と言っていたのは、当の父親だったのだ。
この家は、城下町にある老舗の酒屋の方。
昔からの有名老舗で、例の、
「幕府に献上する酒を収めている」
というお店だったのだ。
信二は、この時、中学三年生であった。親にちゃんと挨拶をして出かける時は、学校に行くのが好きだったのだが、今では、学校に行くのが怖くて仕方がない。
そう、信二は、学校で一部の人間から苛めに遭ってきたのだ。
信二は、
「別に苛められることなど何もしていないはずなのに」
と思っていたが、苛めを行っている連中は離してくれない。
しかも、理由に関しても、
「お前の自己犠牲で、俺たちが満足できればそれでいいんだ」
というではないか?
信二とすれば、
「自己犠牲? なんだそれ」
としか思っていない。
要するに、
「理不尽な理由しか、やつらは言わないんだ」
としか思っていない。
確かに、自己犠牲などという漠然とした言葉で苛めを受けているなど、まったくの理不尽である。
本当に、
「自己犠牲」
というのは何なのか?
まず考えたのが、
「カミカゼ特攻隊」
であった。
歴史が好きな信二は、
「歴史というものが、塩犠牲のもとに成り立っている」
ということが分かっているような気がした。
確かに、見ていると美学であるし、
「耽美」
でもある。
「耽美主義」
という言葉がある。
これは、
「道徳であったり、モラルなどというものよりも、最優先されるものが、美というものである」
という世界の考え方である。
芸術作品などにおいても、いえることで、
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次