「三すくみ」と「自己犠牲」
それが、まず、歴史の中で、最初に起こった。
「お城の危機」
というものであった。
次に起こったのは、江戸時代というものが、
「尊王倒幕」
ということで、
「幕府を倒し、明治新政府が成立する」
という時代になると、もはや、
「近代兵器の前に、城は無用だ」
ということで、基本的には、
「すべてを壊す」
ということで、
「廃城令」
出されたのだ。
跡地を軍であったり、県の施設として使うものもあれば、中には、安価で、
「民間に払い下げ」
などという城もあった。
明治になると、城というのは、
「無用の長物」
ということなのだ。
それが、城の運命だった。
しかし、それでも、大きな城や、軍事目的になっている城などは残されたりした。
その中で、再度、
「お城の危機」
というのが、再度訪れたのだ。
それが、
「大東亜戦争時代においての、連合分による、無差別爆撃」
だったのだ。
元々、連合軍は、国際法に乗っ取って、軍事施設のみをピンポイントに爆撃していたのだが、
「連合軍側の被害が、高射砲などによって出る一方だ」
ということで、
「仕方なく」
無差別爆撃という暴挙を行ったというが、
「国際法違反である」
ということに間違いない。
連合軍は正当化するが、あり得ることではないのだ。
その無差別爆撃で、大都市に残っていた城もいくつか崩壊することになった。有名なところで、
「大垣城」
「名古屋城」
「岡山城」
などであり、広島城に至っては、一発の爆弾で、
「死の街」
と化したことで、完全に燃え尽きたのだった。
それが、
「原子爆弾」
というもので、これこそ、連合軍の欺瞞であり、
「アメリカ兵の犠牲を最小限にするため」
というもっともらしい理由を残して、日本の二つの都市を廃墟にしたのだった。
しかも、その影響は数十年に渡って及び、今でも苦しんでいる人が少なくないというのは、周知の事実だった。
しかも、
「唯一の被爆国であり、しかも、今のソーリが広島出身」
ということでありながら、
「非核条例」
から脱退するなどという、とんでもない暴挙に出るのだから、信じられないと言ってもいいだろう。
そんなこんなで、城というのは、時代とともに、滅んでいったのである。
今でこそ、
「模擬天守」
というものが主流で、天守が建てられているが、ほとんどが、あてにならない。
「観光目的で再建、いや、作られた城ばかりである」
と言える。
何といっても、
「日本の模擬天守の中で、いくつの城が、犬山城を手本に作られたのか?」
ということである。
これが、今の城の事情であり、観光目的にところも多い。
そんな時代となり、
「城址公園が整備されていくのを見るのもいいことだ」
と思っている人が多いことだろう。
自己犠牲
K市の城下町において、
「商人の街」
と、
「武家屋敷」
の間に、一級河川が流れていて、
「以前は内濠だった」
ということは、前述のとおりだが、商人の街の一番川から近いあたりに、昔からの老舗の店が残っている一帯があった。
このあたりは、一級河川からの水が、店で作るものに大きな影響を与えたり、川からすぐに、小舟を出して、そのまま海上交通ができる大型船に、ここから小舟を使って、荷物を運搬できるのだから、
「何とも便利なものだ」
ということで、江戸時代から、お濠の後を、商業目的で利用するということが行われていたのだ。
何といっても、今では、水もだいぶ汚染されえ来たと言われるが、少なくとも江戸期、さらには、明治時代までは、このあたりで重工業のようなものが流行ったということもなく、工場があったという話は聴かない。
しかし、大正から昭和にかけての、
「大日本帝国時代」
というと、重工業が発展していったので、K市にも、軍需工場ができて、川の水も、産業排水によって、かなりひどい状態になったという話であった。
それでも、戦後は、このあたりにあった軍需工場は、ほとんどが空襲でやられてしまった。
そのせいもあってか、そのおかげで、それ以降、高度成長時代であっても、このあたりに、工場ができることはなく、比較的平和な地区であった。
だが、貧富の差の激しいところであった。
というのも、
「このあたりには、昔の部落のようなものが残ってもいるし、山の麓あたりには、会社社長の家が乱立していたりと、まさに、天国と地獄のような様相を呈していた」
といってもいいだろう。
そんな、
「天国と地獄」
のような土地は、戦後、下手をすれば、どこにでもあったといってもいいだろう。
没落したとはいえ、元華族のような人たちの屋敷があったり、財閥系の会社の社長がいたりと、どちらも、戦後没落の一途をたどったところもあったり、さらには、
「差別の権化」
と言ってもいい、部落扱いされているところもあったりした。
K市というところも、類に漏れることなく、そんなところだったのだ。
戦後の混乱時期は、どうしても仕方がないと言ってもいいだあろう。
特に、
「ハイパーインフレ」
が起こり、物資が致命的になかった時期は、田舎に行って、食料と、着物などの、
「金目のもの」
との交換も、ままならないくらいだった。
何しろ、農家の方は、都会から、そうやって物資を食料と交換と言ってきても、皆が似たものを持ってきても、限りある食料を分けるのだから、そこらあたりはシビアであった。
だから、なかなかうまくもいかない。
そんな時代を乗り越えて、政府の強引な
「新円の切り替え」
によって、何とかハンパーインフレはなくなることになるが、貧富の差はさらに激しくなったかも知れない。
とにかく、札束が、紙切れ同然になったのだ。新円に切り替わってしまうと、本当の紙屑と化す。
そうなると、
「貧しい人はさらに貧しく」
ということで、歯止めが利かなくなる。
「どうやってでも、生き残ることができる人が強い時代」
だったのだ。
そんなことを考えると、貧富の差が激しいのは、当たり前のことだった。
そんな中で、比較的、老舗と言われるところも危なかったのだろうが、キチンと切り盛りできる番頭さんがいるところは、何とか生き残ることができた。
それ以上の高度成長時期には、その勢いをかって、しっかりと昔の勢いのまま営業を続けられたことだろう。
次第に、日本が高度成長から、
「富んだ国」
に変わってくると、昔からの老舗というのは、結構、見直されてきて、無難な経営をしているところは、しっかりした商売で、地道ではありながが、しっかりとした経営ができているのだった。
そんな時代の、昭和も終わりかけた頃であろうか、もう、昔に戦争があったなどということを口にする人もいない、
「日本は平和憲法に守られている」
という、
「お花畑的な発想」
を持っている人もいるが、
「果たして、そうなのだろうか?」
と感じさせられるであった。
というのも、世間は、結構、時代の流れに敏感で、昭和の終わりに近い頃というと、社会的には、
「比較的、平和な時代だった」
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次