「三すくみ」と「自己犠牲」
というものであった。
11年という期間、京都で小競り合いが頻繁に起こり、京の街の建物は、
「ほとんど焼け落ちた」
と言われるほど、悲惨だったのだ。
いつ終わるとも知れない戦であったが、終わる時はあっという間だった。
まず、細川勝元と山名宗全が、それぞれ続けて亡くなったということ。
もう一つ大きかったのは、
「自分の土地を留守にして、京都で戦をしていた守護大名の自分の土地で、守護代であったり、国人などの家臣が謀反を起こし、足元に火がついたという状態になってしまっていた」
ということで、
「急いで国元に戻らないと」
ということで、京都でいくさなどしている場合ではなくなった守護大名は、次々に国元に戻っていくということになれば、もう京の都で戦など起こるわけはなかった。
そういうことでの、一種の、
「自然消滅だった」
と言ってもいいだろう。
それが、応仁の乱の終わりであり、もっといえば、足利幕府が地に落ちたいということであったのだ。
ここでいう、
「国元の守護代や国人が謀反を起こす」
ということが、横行していった。
これがいわゆる、
「下克上」
というものだったのだ。
これがどういうことなのか?
というと、それこそが、
「戦国時代の始まりだ」
ということになるのだ。
「戦国時代の始まりについては。諸説あるが、この応仁の乱というのが、一番説得力がある」
というのは、明らかな下克上が起こったからだといえるに違いない。
そんな時代の120年後、秀吉が、ほぼまったくと言っていいほど、同じことを引き起こしたのだ。
もっと言えば、古代にも、持統天皇が、
「自分の息子を天皇に即位させたい」
と願ったことで、他の女が生んだ子供が最有力候補だったのだが、彼に謀反の疑いを掛けて、葬ってしまったのだ。
ちなみに、持統天皇というのは、天武天皇の皇后だったのだが、天武天皇が、先に死んでしまったことで、自分が即位し、後継が育つのを待っていたというところであった。
この時も、せっかく、謀反の濡れ衣を着せてまで、息子が後継者となったのに、その息子が間もなく死んでしまうことになる。そこで、自分が天皇の座を守ることで、孫に何とか天皇の位を譲ることができたのは、せめてもの良かったことであろう。
古代から中世にかけて、同じことが繰り返され、
「時代は繰り返す」
と言われても仕方のない事件が続いていくことになるのだ。
そういう意味で、徳川家康が懸念していたのは、
「後継者争いにおける問題」
というものを一番に考えていたということであった。
三代将軍の後継者問題において、
「長男の竹千代を後継者に」
ということで、春日局が、駿府にいる家康に直訴したという話は、あまりにも有名なことであるが、その時に、
「後継者問題は、お家を潰す一番の原因となる。基本的には、長男が世襲するのが当然である」
ということで、秀忠、お江の夫婦が推していた、
「次男の国松」
ではなく、後継者は、長男だということにしたのも頷ける。
春日局の進言があったからであろうが、家康自身も、このあたりはハッキリさせたかったのかも知れない。
しかし、今は次男に将軍職を譲った以上、しかもその次男が、
「弟の国松を将軍にしよう」
と考えていた時点で、厄介なことになっていたのである、
っそれを、
「ちょうど直訴してきた春日局の肩を持つ形で、まわりに周知徹底させられたということは、願ったり叶ったりの出来事だった」
と言えるのではないだろうか?
下手をすれば、
「最初から家康が企んで、書いたシナリオだったのかも知れない」
と言えるのではないだろyか?
秀吉の策略から、後継者は自分の息子ということになったのだが、これが結局、
「豊臣家滅亡につながる」
というのだから、実に皮肉なことだった。
秀吉亡き後、家康は策を弄して、関ヶ原で石田三成を破ることで、江戸に幕府を開くことになるのだが、そこから、家康は、
「豊臣恩顧の大名に悩まされることになる」
というのだ。
まだまだ秀頼がいることで、徳川政権は安泰とはいえない。最終的には豊臣家を滅亡させなければ、死んでも死にきれない」
と思っていたに違いない。
家康の目的は、
「戦のない世を迎え、その頂点に徳川が立ち、その時代を、子々孫々にまで広げることだった」
と言ってもいいだろう、
家康は、そのために、豊臣家を
「大阪の陣」
で滅ぼし、徳川時代の基礎を築いていくことになったのだ。
本人は、豊臣家滅亡の翌年死んでしまうが、その意思は、子孫にまで受け継がれていくことになる。
何と言っても、
「260年の太平」
という、世界でも希少価値な時代を作り出したのだから、すごい物であった。
もっとも、そのために、各諸法度、参勤交代の義務。身分制度の拡充。さらには、大名への、
「大規模な粛清」
ともいえる、
「改易処分」
を行ったのだ。
この街の城ができたのは、江戸幕府が成立する前から建設が始まり、約7年という歳月を費やして、城下町が出来上がった。
実際に同じ頃、家康の命令、あるいは要請があって、当時全国に同じような、豊臣恩顧の大名に対する対策として、たくさんの城が築かれ、大体その日数というのが、
「5年から7年くらい」
というのだから、これだけの土地を整備から始まっての建設に、
「7年」
というと、結構大変だったに違いない。
それが、この時代の普請能力だったのだろう、
「さすが日本人」
というところであろう。
このあたりは、外人にはできないところで、
「いざという時の集中力」
であったり、創意工夫の発想というのは、他の外人にマネのできないものとして、誇ってもいいのではないだろうか?
そんな時代をいかい過ごしていくのか、このあたりが問題になってくる。
しかし、
「元和堰武」
という、家康が、
「天下泰平の時代の到来」
というものを宣言させたことで、一つの時代が終わりを告げたことになるのだった。
そんな時代において、お城というのがどうなったのか?
当時の幕府は、
「平和になった時代で、幕府による、統一国家をつくるということを考えると、まず大切なのは、各大名で戦争を起こさないことと、幕府に歯向かうことのようにないようにしないといけない」
ということである。
そのために、
「粛清」
というものを、
「改易」
という、お家取り潰しによって、行うことになったり、参勤交代を義務化して、
「大名に金を使わせて、力を削ぐ」
ということを中心に行うようにしていた。
さらに、城というものも、今までは、
「豊臣の抑え」
としてたくさん作ったが、今度は、それが、邪魔になってきたということで、幕府が出した命令が、
「一国一城令」
というものであった。
つまりは、
「執務のための城」
というものが、
「一つの領主に一つあればいい」
ということで、
「他の城は取り潰せ」
ということであった。
だから、せっかく最近作った城でも、
「数年で取り壊す」
ということになったのも、結構全国にはたくさんあったことだろう。
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次