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「三すくみ」と「自己犠牲」

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 群雄割拠の中で、貿易にも、戦にも特化した戦ができるという意味で、最高だったのだ。
 特に、水軍が充実しているということや、籠城戦に長けているということから、この城は本当に重宝した。
 だが、関ヶ原終了後は、
「豊臣恩顧の大名が、謀反を起こした時の抑え」
 ということもあり、
「海城では、心もとない」
 あるいは、
「徳川の時代では、戦はなくなる」
 ということを見越して、海城以外に、
「領地を収めていく」
 という理由と、
「政務を行うために必要な施設」
 ということでも、新たな城の建設が急がれたのだ。
 だから、この街は、
「拠点となる城と、従来の海城の、二大拠点で運営する」
 ということが考えられた。
 そのために、とりあえずの、巨大な城下町の建設が急がれたのだ。
 ちょうど、作り始めたのが、関ヶ原の翌年からだった。
 実は、当主は、以前から、
「大きな城下町の建設には、夢のようなものを抱いていて、世の中が落ち着けば、城下町にての政務を行うための、拠点として、君臨する」
 ということを想像していたのだ。
 だから、移封されてからの、最初に手掛けたことが、この城下町の建設だったのだ。
 実際に以前のこの土地というのは、海城を中心としたものであったが、実際の土地は、ほとんど手を付けれらておらず、農地だったのだ。
 といっても、このあたりの農地は、広いだけで、実際に農家がコメを作っている範囲はそれほどあるわけではなかった。
 コメ以外のものも作っていて、それが、
「このあたりの名産」
 として、今にもいきつがれ、
「全国的にも有名な、お土産物」
 ということになっているのだ。
 だから、そういう特産品もあるのだから、農民が勝手におのおのの農業をやっているという、
「いかにも、田舎の土地」
 というイメージだったのだ。
 もちろん、太閤検地などで、一度は土地区画などが行われたが、検地が終われば、結構曖昧になった。
 それだけ、大阪や京からは、遠いところに位置していたということであった。
 そんな土地において、
「これからどうすればいいというのだ」
 ということに関しては、以前ここを収めていた領主は、なかなかビジョンを持っているわけではなかった。
 もっとも、それは、まだまだ群雄割拠という時代だったから、それも仕方のないことだった。
 豊臣政権になってから、若干、天下が統一されていき、内政に関しても、秀吉配下のしっかりした体制が築かれてはいたが、
「すべてにおいて、天下泰平」
 というところまでは、まだまだ難しかったのだ。
 確かに、四国から九州。さらには、関東、東北までと、順調に平定され、世の中は、
「豊臣政権による。武家政治」
 が行われていた。
 その政策は、大筋で、間違ってはいなかったはずだ。
 その後の徳川政権でも、ほとんどのやり方が、豊臣政権を踏襲していた。
 実際には、
「どんどん厳しくなっていった」
 というのが、事実ではあるのだが、豊臣政権は、天下を統一してからというもの、どこか異常な面が見え隠れしているのだった。
 特に、豊臣政権において何が行われたのかというと、
「千利休の切腹」
 さらには、
「秀次事件」
 などが大きかった。
 秀次事件というのは、秀吉による、粛清に近かった。
 しかも、
「濡れ衣」
 ということが、実しやかに囁かれ、今では完全に、
「秀吉の暴走」
 ということになっている。
 というのも、この話は、実は歴史的には、初めてではなかった。
 何度も繰り返されてきたことであり、古代であれば、
「持統天皇」
 中世であれば、
「足利義政と日野富子」
 などがいい例であった。
 秀吉には、正室の、
「おね」
 の他に、側室が数名いたが、そのうちの一人である、浅井三姉妹の長女、茶々が、一度、鶴松という子供を産んだのだが、2歳で死んでしまった。
 さらに、秀吉が不幸だったのは、
「自分があてにしていたり、大切にしていた人が、どんどん死んでいく」
 ということが実際にあったからだ。
 息子の鶴松はもちろん、母親である、
「大政所」
 さらには、政治的にも、武士としての総合的な参謀として一番期待していた、弟の秀長の死は、相当なショックだったに違いない。
 そんなこともあって、かなり、憔悴していたのは、無理もないことだとは思うが、秀吉は、
「もう自分には男の子が生まれないかも知れない。自分もどうなるか分からないから、今のうちに、跡取りを決めておかなければいけない」
 という妄想に取りつかれていた。
 そこで決めたのが、自分の甥っ子である、秀次を養子ということにして、
「自分の関白職を継がせる」
 ということであった。
 そこはスムーズにいったのだが、何と、すると近年になって、茶々が、男の子を産んだのだ。
「しまった」
 と思ったのは、秀吉だっただろう。
 正妻のおねが、
「秀次殿には、娘がいるので、今回生まれた子供と結婚させて、関白職を譲らせれば、一番しっくりくるのではありませんか?」
 という妙案を出してくれたのだ。
 ここから先は、どこまでが本当なのか分からないが、それから先の秀次は、その妙案があっても、
「自分はいずれ、関白を追われてしまう」
 という妄想に取りつかれたのが、乱行を繰り返すようになったというのだ。
 それを聞きつけた秀吉が、秀次を高野山に幽閉させ、しかも、その時に、囁かれていた、
「謀反の疑い」
 という理由で、切腹させられてしまったのだ。
 今では、
「秀吉が、秀次に謀反の疑いを掛けたのも、失敗だったのではないか?」
 と言われている。
 もっとも、後ろには黒幕がいて、
「すべてを企んだ人がいる」
 ともいわれている。
 石田三成という線が大きいが、果たしてどこまでが本当のことなのか、誰が分かるというのだろう?
 さて、そんな、
「繰り返された歴史」
 であったが、まったく同じことが、約120年くらい前の、室町時代に起こっていたのだ。
 というのは、足利将軍第八代目の、義政の時代のことだ。
 義政自体は、あまり政治に興味があったわけでもなく、管領からすれば、
「頼りにならない将軍」
 ということだっただろう。
 しかも、彼には、跡取りが生まれなかった。
 そこで、
「仏門に入っていた弟を還俗させて、将軍に据える」
 ということを行ったのだが、間が悪いことに、こちらも、すぐに、正妻の日野富子に、男の子が生まれたのだ。
 日野富子は、自分の子供を将軍にしたいと切望するようになる。
 将軍に指名されていた義政の弟には、当時の管領の細川勝元がついていた。
 しかし、その細川と対立していた、山名宗全がいることに眼をつけた日野富子は、山名を呼び出し、
「この子を将軍に付けたいのだが、協力してほしい」
 と願い出る。
 山名からすれば、
「好奇至れり」
 と思ったことだろう。
 何しろ、
「これで、堂々と細川と渡り合える大義名分ができた」
 というものだ。
 さらに、有力御家人の対立も絡んで、京の街を舞台に、
「細川勝元を東軍、山名宗全を西軍」
 として、全国の大名を動員する形で、大きな戦に発展することになるのだが、それがmいわゆる有名な、
「応仁の乱」