「三すくみ」と「自己犠牲」
ということになり、
「神の領域」
という意味で、
「これほど罪深いことはない」
ということになり、立場は逆転する、
ということになってしまうのかも知れない。
つまりは、
「盗まれた金」
で、罪の重さがきいてくるもので。
「そのお金がなかったら、被害を受けた人にとって、その人によって、いや、知恵を出してくれる人がいるのだから、分かりそうなものだが、それなら、一律に、金銭に関わりなく、悪いことは悪い」
と言った風に、それこそ、
「勧善懲悪」
という意味を考えれば、自ずと道も開けるというものであった。
「友達が、万引きをする前に、いかにしてなら止められるかのか?」
と考えると、
「本当の原因の解消どころか、その時、何を考えていたのか?」
ということが分かるのかも知れない。
こうなると、
「見つけることのできない。元々の元というものを追いかけるよりも、やはり、時系列的に見えていることを整理して、それをいかに、理解できる形に落とし、まわりにも周知徹底さをつけるようにできないとなると、結果は、過去を追い求めるだけ、無駄だということになってしまうだろう」
というものではないだろうか?
結局、見つからない原因を分からなくしているのは、前からの、
「古き悪しき時代の考え方だ」
ということになるのだろう。
しかし、
「原因が見つからなくとも、その原因を探した」
ということに意義があるのではないか。
つまり、
「理由が見つからない」
ということのせいにして、
「見つけようと試みた気持ちが、いかに大切なのではないだろうか?」
と考える方が、実に、
「分かりやすい考え方」
ということになるのだろう。
結局、答えが見つからなくとも、少し考え方を柔軟にして、理解できるところまでくることが大切だ。
ということになるのだろう。
そんな、本当なら人に言えないような状態を見ながら心を痛めていたが、そのうちに、今度は別のことがのしかかってくる。
大団円
信二は知らなかったのが、いつの間にか、向井お菓子屋が店を畳んで、そそくさと引越していった。
要するに、
「夜逃げ状態」
だったのだ。
最初は何が起こったのか分からなかったが、話を聴くと、どうやら、
「詐欺師に騙された」
のだという。
「お菓子を大いにプロモーションし、全国で、あらゆる手段を使って販売すれば、相当な金が儲かる」
ということを言われ、最初はさすがに、
「大丈夫なのか?」
と考えたそうだが、どこに相談するということもせず、結局、その口車に乗ったのだという。
しかし、怪しいと思えば、契約書くらいちゃんと読めばいいものを、どうしても、自分たちのやり方で来ていたものを、
「もちろん、主導権はあなた方で、私はあくまでも、裏方でお手伝いさせていただくだけです」
と言って、彼らがいくらの報酬になるのかということも、ちゃんと契約書に書かれているところを指差す形で、確認させた。
そもそも。どのページに、そのことが乗っているかというのが分かっていて、一発で開くようにできていたことで、店側は、却って、
「ああ、それだけ、こちらの不安を吸い上げてくれるのだ」
と思ったようだ。
普通だったら、
「よくある質問」
ということで、
「絶対に質問があるに違いない」
ということで、あらかじめ、どこに紹介する時もそれを強調しているということであり、今回は、そこまで集中もしているわけでもないのに、いきなりページを開いたということで、怪しく思えば思えないわけではない。
それを怪しく思わなかったのは、それだけ、
「こういうことには慣れていない」
ということだ。
だから、彼らも、
「老舗で、商売っ気のない人たち」
を狙うのだろう。
お金が絡むことで怖いと思えば、弁護士くらいは立てようと思うだろう。しかしやつらは、それも分かっていて、交渉の弁護士も、紹介くらいはするという、
「念には念を入れた」
と言ってもいい、やり方だったのだ。
彼らの手法としては、確かに、表の収入は契約書通りなのだが、この契約には、何と、著作権譲渡というものが含まれていた。
つまりは、著作権を自分たちにも与えられ、そこで商売ができるというものだ。もちろん、元の著作権はそのままだが、
「登録商標の使用」
を詐欺グループに認めさせるというものだ。
彼らには、工場のようなところがあるので、製造方法などのレシピさえあれば、いくらでも大量生産できるというものだ。
元々のお菓子会社とすれば、大量生産をされて、簡単に売りさばかれたら、こちらの利上げが徐々に減る。いや、それよりも、
「こんな大量生産などされたら、今までのブランドが台無しだ。皆手で作っていたものを何だと思っているんだ」
ということになるのだ。
それが一番の問題であり、果たして、そうなると、
「一種のダブルパンチを食らった」
ということになるのである。
さすがに、家族自体が、何も言わずにどこかに行ってしまったのだから、気にはなるが、それ以上、気にかけても仕方がないことだった。
自分もかつて苛めに遭って、どうしていいのか分からない状態になっていたので、果たして、どう対応していいのか分からないということになり、それが、自分の生活リズムを狂わせるようなことになっているとは、自分でも、思っていなかった。
だが、
「今の自分は、勉強などでは、自分が持てるようになったことで、自分は、何でもできるというくらいの思いを持てるようになった」
ということで、
「まさか、自分が精神疾患を患っているなどと、思ってもみなかった」
ということである。
しかし、実際には、躁鬱のような感じであった。
「何でもできる」
という躁状態になってしまったことで、
「自分が、病気などというわけではない」
と思うのだ。
そもそも、
「躁鬱というのは、誰にでもあることで、それを表に出すか出さないか?」
というだけの問題だと思っていた。
しかも、その躁鬱は、
「大人の病気」
と思うようになったので、
「その感情が、大人になれば、皆出てくることで、一種のはしかのようなもので、
「罹っている期間は長いが、一時的な、誰もが通る道」
であるかのように思っていた。
「だから、躁鬱状態が、長いか短いかどうかということであり、長い人は、下手をすると、長期化してしまい、一種の慢性化ではないか?」
と考えるようになった。
それを、
「精神疾患だ」
というように思っていたので、もちろん、病院に行く気もないし、
「一時的な気の迷いものだ」
ということになると、
必要以上に。余計なことを考えないようにしようと思った。
実際に、この時も、数回の躁鬱状態を繰り返したことで、期間とすれが、半年もなかっただろう。
自然と、躁鬱が引いていったような気がしたが、結局は、
「治ったんだ」
としか思わないようになった。
「治ったわけではない。慣れてきたのか、慢性化したのかというどちらかなのではないだろうか?」
と考えるようになったのだ。
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次