「三すくみ」と「自己犠牲」
というのが、大方の理由で、下手をすれば、
「彼が万引きをするくらいなら、他の人だったら、万引きをしたといっても、誰も疑わないレベルではないだろうか?」
ということであった。
だから、
「この事実があるから、二学期以降の成績下落の納得がいくともいえるのだが、その原因が、よりによって、万引き疑惑だったとは」
というものであった。
「学校の成績下落だけが、万引きに繋がっているわけではない」
と思えたが、
「それ以外のところでは考えられない」
というものだった。
家族にしても、まわりの環境にしても、何かが変わったというわけではなく、
「学校生活が、成績だけによるものではない」
ということを、一番知っているはずの信二に、
「その時どうして、すぐにピンとこなかったのだろうか?」
ということを感じさせないとは思わなかった。
そう、信二は中学時代に、苛めを受けていたのではないか。
それが高校生になると、
「さらなる苦悩を呼び寄せるのではないだろうか?」
ということを考えさせるのであった。
中学時代とは違い、高校生による苛めというのは、どういうものなのだろうか?
中学時代で苛めが終わった立場とすれば、
「これ以上の年齢での苛めというのは、ないに違いない」
と考えていた。
実際に、中学時代までであれば、もし、苛めがあったとしても、その生徒や苛めっ子たちを見ていれば、
「それも仕方がないことだ」
と思えるだろう。
しかし、彼を苛めていた連中の影が見えてこない。
「本当に苛めなどが、あったのだろうか?」
と考えさせられるといってもいいだろう。
「苛めというものは、苛められる側に苛める側の怒りに触れる何かがあってこそ、苛める行為に走るのだ」
ということであろうが、どうも、苛められる側に、苛められる理由というのが見えてこないのだった。
つまり、高校生になってからの苛めは、
「理由がないこともある」
ということなのかも知れない。
ただそれは、
「高校生になって苛めが始まったという際においてのことで、中学時代から続いていたとすれば、それはそれで悪質で、分かり切った理由であるがいえに、なかなか、抜けられないということになるのだろう」
ということになるのだった、
ハッキリとした、いわゆる、
「不良化」
ということなのであろうが、その原因というものが、ハッキリとしているわけではないが、どうも、その理由が万引きにあるようだ
「万引きをするような子なので、不良化したり、成績が極端に落ちてしまうことになる」
というのが、理由なのだろうが、
問題は、
「なぜ、万引きなどという行為に至ったのか?」
ということなのであり、結果としてついてきた、
「万引きという行為」
を、
「不良化への一歩手前」
として捉えたとすれば、
「それが間違っていた」
ということではないだろうか?
「物事は、一点だけを切り取って報道されたり」
あるいは、「
一人を悪者にして」
それが、
「問題への解決方法だ」
ということになる場合が多い。
そうなると、これほど楽な解決法はない。
ということになる。
だから、問題の本質に触れようとせず。問題の解決の優先順位を考えた時点で、
「原因と思えるものが発生した時点からの問題」
として、捉えられがちになってしまうことだろう。
それを思うと、
「夏休みだけを切り取ると、
「悪い仲間にでも誘い込まれたのではないか?」
という結論になるのだが、確かに、こう考えれば、解決方法は楽であった。
だが、それは、
「答えを導き出す」
というのは、そこから解決右方をさらに練らなければいけないのに、そこから策を考えようとせずに、
「腐ったミカンの方程式」
のように、
「悪かったところだけを切除して、組みなおす」
と考えればいいものを。
「腐った部分だけではなく、ミカンそのものを捨ててしまえば、これほど楽なことはない」
と言えるだろう。
要するに、
「楽をしたい」
ということなのだ。
何でもかんでも、
「楽になる」
ということに特化して考えると、まわりを見なくなる。
下手して、
「まわりを見たくない」
あるいは。
「まわりが、自分をどう見ているか?」
ということを考え、何も問題がなければ、
「ああ、楽すりゃいいんだ」
と考えるだけで、
「全体を見ることがなく、何か起こっても、自分はただの外野から見ているだけの人間だった」
と言えるだろう。
そのせいで、根本の理由を突き止めることができなくなってしまう。
それなら、最初から、
「楽をすることしか考えていない人に、その原因究明をさせることが間違いだ」
と言えるのではないだろうか?
それを考えたのが、自分本人だということが分かれば、逆に、自分を反面教師にしてしまうというのも、一つの作戦だ。
「間違っていると思うことを、事実だとして考えてみる」
つまりは、
「逆の逆は正」
だということであり、
「一周回って、戻ってきたのだ」
と言えるだろう。
その友達も、
「一周回るだけの心に余裕があれば、夏休みに入る前に解決できたかも知れない」
ということになり、
「夏休み前であれば、余裕絵解決できたことなのかも知れない」
と思うと、
最初に気付くはずの自分が分からなかったことからのこの状態なので、
「夏休みになるまでに分からなかった時点で、まわりの敗北」
ということになるだろう。
しかし、
「こんなに一生懸命になって、対応できる人がまわりにいると思えば、もう少しいろいろな発想が出てくるというものだ」
ということで、
「現状の苦しみから逃れるだけではなく、先に進んだ問題の解決方法にもつながる」
と言えるのではないだろうか?
「じゃあ、一体いつからおかしかったのだろう?」
と考えようとするほど考えられない。
一つだけハッキリと言えることは、
「どんなに考えても、出発点においてを解明することは不可能だ」
と考える。
というのは、
「夏休みに万引きをした時点で、いくら過去に戻っても、その理由を解明することは不可能ではないだろうか?」
そもそも、
「時すでに遅し」
というわけだが、
「じゃあ、万引きという行為を止めていればよかったということだろうか?」
と聞かれるが、
「いや、そんなことではない」
と答えるだろう。
「万引きをした時点で、踏み入ってはいけない一つの壁を開いてしまったわけで、その悪行から逃れることはできない」
というものである。
万引きというのは、
「踏み入れてはいけない、悪にとっての、聖なる場所だったのかも知れない」
と言えるだろう。
「万引きというのは、罪の中では、案外に、軽い罪である」
しかも、金額によって度合いも違う。
「例えば、金持ちのところから数千万円を盗んできた」
というのも、
「お賽銭のこぼれた100円玉をネコババした」
というのでは、金銭的な理由から、
「前者が重たい」
と思われがちだが、もし、盗まれたのが、その人にとっては、さほど痛くもない腹だったとして、さらに、お賽銭を盗むということが、
「神を冒涜している」
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次