「三すくみ」と「自己犠牲」
「元々、自分を虐めていたやつだ」
というのは、
「実に皮肉なことではないか?」
と言えるのではないだろうか?
確かに、中学三年生の頃は、ほとんどが、トップクラスの成績で、先生が舌を巻くほどの成長ぶりに、
「これだと、二段階ランクを上げても大丈夫だ」
という、
「お墨付き」
というのももらっていたのだ。
実は彼は最初から、
「二段階上の成績」
というものを目指していた。
それは、
「目標があくまでも一ランクが上の学校ということだった」
ということだからだ。
「どんなに成績が上がっても、一ランク上よりも上の学校を受験しない」
ということだったのだ。
だから、二段階上を目指したというのも、そのためであり、それを考えると、最初から、
「確信犯だった」
と言ってもいいだろう。
それを考えると、
「今までに関わっていた連中が陥りがちなことに、自分の身を置くのも嫌だ」
と思ったからだ。
どんなに成績がいいからと言って、ランクが上の学校に入れば、
「自分と同等、さらには、それ以上の連中ばかりがいるわけなので、うまくいっても、中くらいの成績しか取れないんだろう」
と思ったのだ。
「下手をすれば、劣等生」
と思うと、
「ランクを一つ下げた学校に行くのは、当然のことだ」
と思っていた。
学校側からは、
「せっかく、合格圏内と思えるのに、もったいないな」
と言われることだろう。
それも、
「学校側の思惑」
ということであり、
「学校の格と品があがることを唯一の目的とする」
というような、中学校に合わせていれば、子供が潰される。
「自分がそんな仲間に入りたくはない」
というのが当然の目的になるということである。
だから、信二は、そんな
「一ランク下げた学校が、目指している学校だ」
ということで、うまい具合の、最初からの計算ということになったのである。
中学で自分を虐めていた連中は、普通に、
「誰でも入れる」
というような学校に入学したが、当然のことながら、
「今までの劣等生が、這い上がれるわけもなく、劣等生のままだ」
ということになるのだ。
何と言っても、
「あいつらは、努力などしてないから、この結果は当然だ」
と思っていた。
自分を虐めた報いを受けるのは、当然であり、
「人に災いを振りかけると、それは、ブーメランとなって、自分に戻ってくることになるのだ」
ということを知らなかったのだろう。
そして、
「何で、俺は劣等生のままなんだ?」
ということになり、
「その理由が永遠に分かるわけはない」
と思うことで、
「やっぱりな」
と、さらに、自分の考え、ビジョン、そして間違っていないということが、
「やつらによっても、証明を得られた」
と考えることが、自分の中での、
「冷静さ」
につながるということで、有頂天になるのも分からなくもないということであった。
高校に入学すると、自分の方は、どんどん、まわりの雰囲気も、自分のこともが、すべてにおいて好転していった。
「一つのことがうまくいき始めると、次第に、すべてがいい方にいくんだな」
とは、思ったが、そもそも、
「石橋を叩いてでも渡らない」
というほどの、用心深い信二は、どうしても、そこまで来ても、
「順風満帆だ」
というようなほどに、うまく言っているとは思えなかった。
というのも、
「好事魔多し」
という言葉があるように、うまくいっていると思っていても、すべてにおいて、
「そんなにうまくいくはずなどない」
と思っているのだった。
それがどういうことなのか?
ということになると、
「どんなに、うまくいっている時でも、ちょっとしたことで、暗転してしまうことになりかねない」
ということであり、
「何かが好転する時だって、うまくいく時が連鎖的に起こるではないか?」
ということで、ロクでもないことが起きる時も、何かのきっかけが、連鎖することもあるといえるのであろう。
特に、これは、精神的なことが多く、
「うまくいかなくなるということは往々にしてあるもので、そのあたりが自分でも感じられるようになると、その予感が、ウソではないと思えると、悪い方に向かうと思えてならなくなってしまう」
ということであった。
そんな状態において、
「一度精神的に、まずくなると考えると、もう自分では、どうしようもできなくなってしまう」
ということになりかねないのだった。
それを考えた時、どうしても、自分の目線が表に向いてくるということが分かってくる」
と言えるだろう。
内に向くよりも、外の方に見えてきてしまうというのは、やはり、かつて感じた、
「トラウマ」
というものが大きく影響してくるのではないかという思いであった。
トラウマというと、どうしても拭い去ることのできない感情ということで、そこには、中学時代の苛めが関わっているのも、仕方のないことであろう。
「トラウマというものは、自分で解消した」
と思っていることだろう。
しかし、確かに自分で解消はしたのだが、それも、原因が分かっていて、自分にも非があるというようなことを感じたからこそ、自分では、
「トラウマとしては、残っていない」
と思っていたのだ。
だが、その思いを自分で感じていたとすれば、それは、
「何かの矛盾が自分の中に残っている」
ということであり。
「苛めの中にトラウマと化すようなものがあったということか?」
と考えるのであった。
苛められている時は、自分が、
「なぜ苛められるのか?」
ということが分かっていたような気がした。
しかし、それは間違いであり、
「最初から分からなかったから、考えようとしたのであって、分かっていたかのように感じたのは、後になってから分かったことを、さかのぼって分かったかのように感じたからに違いない」
と言えるだろう。
そう思うということは、
「分かっていたのではなく、分かろうとしたことが、後で分かったことと結びついて、そのように感じたに違いない」
ということなのであろう
その日は学校からの帰り道のこと、
「下駄の鼻緒が切れると、不吉な知らせ」
などというものがあった。
さすがに、今は下駄を履く人や、下駄を使う人の風習は残っていないので、
「鼻緒が切れる」
などということはない。
それに、今までの信二であれば、
「そんな迷信のような話を、信じるようなことはしない」
という感覚であったが、この時は何か、不気味なものが頭を巡っていて、
「何やら、予感めいたものがあった」
と感じたとしても、おかしなことではなかった。
その日、学校からの帰り道、何やら歩きにくいと思い、足元を見たら、靴紐がほどけていたのだ。
それくらいのことは今に始まったことではなく、いつものこととして、
「ああ、面倒臭い」
と思いながら、靴紐が結べるところまで行ってから、紐を結ぼうと考えていた。
そして、ちょうど、脚を載せられそうな高さのガードレールを見つけた時、急いで、その場所まで向かって、軽く足を引っかけて、
「靴紐を結ぼう」
と見つけたものだった。
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次