「三すくみ」と「自己犠牲」
だから、嫉妬というのも、そのひところで決まってくるものもあれば、そうではないものもある。
ここでお互いに
「三すくみ」
のようになることで、必要以上な嫉妬心が大きくなるということはないと言ってしまえば、それに越したことはないであろう。
そういう意味で、
「三すくみ」
というのは、暴走を防ぐという意味では必要不可欠であろう。
「三すくみ」
というと、
「紙、石、はさみ」
というものであったり、
「大蛇丸、綱手姫、地雷也:
と呼ばれる、
「ヘビは、カエルを飲み込み、カエルは、ナメクジを食べる、ナメクジは、ヘビを溶かしてしまう」
というような、いわゆる、
「力の均衡」
というものが、三すくみにはあるのだ。
これは、三すくみでなくとも、
「力の均衡」
を保てるだろうが、それでも、
「三すくみが存在する」
ということは、
「三すくみであれば、それだけ強力だということだが、裏を返せば、それよりも弱ければ、不安極まりない状態だ」
と言ってもいいのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「世の中というのは、いかに、さらなる抑えがあるかということが大切か?」
ということで、
「三すくみ」
というものが、いかに、この世で大切かということを戒めているような気がする。
それだけ、三すくみということになると、
「まったく身動きができなくなり。これ以上強固なものではない」
と言えるに違いないのだった。
そんな今の世の中で、本当に、
「三すくみ」
ということがあるのだろうか?
仕事などでは、
「二重チェック」
と言われているが、これこそが、
「三すくみに匹敵するものなのかも知れない」
と言える。
しかし、実際の社会では、
「人手不足」
というものが、激しくのしかかり、分かっていても、そこから先、三すくみにまで至ることは難しいのだ。
と言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「世の中における三すくみというのが、効力や抑止を与えるだけのものなのか?」
と思えてならなかったのだ。
虫の知らせ
そんな形で苛めに遭っていた中学時代を過ごしていた信二だったが、それが一段落してきたのが、高校生になってからだった。
高校生になれば、
「学力の違い」
というものがそのまま、進学する学校に変わってくるので、自ずとそんな連中とは、
「行く高校が違う」
ということになるのだ。
中学三年生の頃になると、
「このままだとあいつらと同じ学校にいくことになる」
ということが分かっていたので、
「少しでも、あいつらよりもいい学校に行かないと気が済まない」
と思ったこともあって、積極的に勉強をした。
家族にしても、学校の先生にしても、それまで勉強というののに、興味を示さなかった信二に対して、
「少し気を病んでいた」
と言ってもいいだろう。
「さすがにあの連中よりも、いい学校に行きたい」
という思いが強かった。
それは、今までの
「苛め」
に対しての、
「ささやかな抵抗」
と言ってもいいかも知れない。
いい学校にいく必要はないのだが、実際に勉強をしてみると、
「思ったよりも、勉強をすることって面白い」
と思ったのだ。
勉強をすることが楽しいというのは、まったく想像もしていなかったことであり、それだけ、
「集中している」
ということが楽しい。
と言っておいいだろう。
さらに、勉強をすると、結果がすぐに出るということも嬉しかったし、
「どうして、こんな楽しいことに、今まで気づかなかったのだろう?」
と感じるほどだった。
結果がすぐに出て、その結果がいい方向であれば、それまで、まったく無関心だった自分に対して、
「気に掛けてくれる」
という人が増えてくれるのも嬉しかった。
今までは、変に構わられると、
「鬱陶しいだけだ」
と思っていたが、
「すごいじゃないか?」
だったり、
「見直した」
などと言われると、当然のごとく、有頂天いなってしまうのも、当たり前というものであった。
しかも、最初の目的である、
「苛めている連中と離れる」
ということも、達成できそうだし、まわりからは、
「一目置かれる」
ということも、嬉しかったのだ。
そんなことを考えていると、
「勉強が好きになっている自分が楽しくて仕方がなくなっていた」
勉強も、
「やればやるほどできる」
というようになり、学校の先生も、
「最初に計画を立てた通りに、順調に進んでいるので、合格にかなり近づいてきた」
と言ってくれたことで、またしても自信が出てきた。
人によっては、
「おだてが、プレッシャーになる」
という人もいる。
しかし、信二に限ってはそんなことはなかった。おだてがプレッシャーになるというよりも、
「一生懸命にやったことが、形になる」
と考えることが、嬉しくて仕方がないと思えるようになったのだった。
そんな風に、余裕を持って考えられるようになると、事は結構うまく運ぶもので、
「試験当日の一発なので、何があるか分からない」
というように思っている人も多いだろうが、それよりも何よりも、
「信二というのは、余裕があれば、たいていのことは思ったようになる」
という意識をまわりも持っていて、実際にその通りになってきた。
「天性の何かがあるのかも知れないな」
とすら言われるようになったもので、その頃は、その
「片鱗」
というものが見えていた。
と言ってもよかったのではないだろうか?
そんなことを考えていると、実際に試験前は若干の不安が無きにしも非ずであったが、実際に当日になると、不安は消えていて、本番に強く。当然、合格できたというものだった。
それが、彼にとっての、
「開き直りだ」
というものであっただろう。
開き直ることが、自分をいかに、引き揚げてくれるかということに気付かなかったことが、
「実にもったいない」
と言えるのではないだろうか?
まずは、人生の最初の関門と言ってもいい、
「高校受験」
というものを、
「目標高校への合格」
という形で叶えたのであった。
そのおかげで、中学時代の連中とは離れることができた。
しかも、
「目標を上げて合格した学校だから、今までのように、低レベルではなく、皆同等か、それ以上なので、自分が今どこにいるか? ということを見臼なうと、厄介なことになるのではないか?」
ということを言われているが、まさにその通りであったのだ。
だが、それは、信二に限っては言えなかった。
信二の中に、最初からその思いがあったからだ。
「本当であれば、当たり前のことだ」
と言われるのだろうが、実際に信二のその気持ちは、そういうわけではなかったのだった。
実際に、勉強ができたことだけではなく、
「冷静に、まわりをしっかりと見ることができた」
ということが、信二を、
「間違った道に進ませないことだ」
と言えるのではないだろうか?
「なんといっても、冷静になれること」
というのが、一番大切なことであり、
「そのことが分かっていなければ、自分に将来はない」
と考えさせたのは、
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次