「三すくみ」と「自己犠牲」
これでは、とても、
「中立を宣言している」
とは言えないだろう。
完全にどちらかの国に加担していると同じことであり、いまだに相手国から攻撃されないだけ、相手国が紳士的だということで、感謝しなければいけないだろう。
何しろ、今のソーリは、
「自分が、外国にいい顔をしたい」
というそれだけの理由で、
「世界的なパンデミック」
の影響で、いまだに苦しんでいる国民を放っておいて、その国民の血税っで成り立っている、
「国家予算」
というものを、平気で、戦争をする国に譲渡しているのだから、
「なぜ、国民も怒りをあらわにしないのか?」
と思えて仕方がない。
「やられている国が可愛そう」
という偽善の心に騙されているのか。
そもそも、武器をあたえているということは、
「それで戦争継続を促しているわけであり、和平を唱えながらも、やっていることは、正反対だ」
ということになるのだ。
そんな状態で、それでも、ソーリができているあの男、放っておけば、大東亜戦争における、いわゆる、
「戦争犯罪人」
とされた方々よりも、最悪のソーリだと言えないだろうか?
「本当に、日本の政治家は、国際法というものを理解できているのか?」
と思い、それよりも、国民の血税で成立している、
「国家予算」
というものを、今現在困っている人に使わず、
「かわいそう」
という理由で、何ら見返りもない贈与という形で、金を外国にばらまかれなければいけないというのか。
それを考えれば、今のソーリこそ、
「国家反逆罪」
で、極刑にされるべきではないだろうか?
隣の、某国のように、
「大統領になると、その末路は間違いなく悲惨な運命しか待っていない」
ということも、この国にあっても不思議はない。
考えてみれば、今のような、スタグフレーションを巻き起こした、
「自分の党をぶっ潰す」
といって、当時は人気絶頂だったソーリ。
さらに、
「世界的なパンデミック」
の時、何もできず、しかも、数々の疑惑から、自殺者が出るほどの社会問題を引き起こしたにも関わらず。二度までも、最後は病気を理由に、病院に逃げ込んだという、あの、
最終的には。暗雑されたあのソーリなど、極悪な政治家しか、今は出てこないではないか。
ただ、そんな連中は、
「愛国心」
ということで、靖国参拝をしたというのは、どういうことなのだろう?
それだけ、
「日本という国は、わけのわからない国」
と言って、一刀両断に片付けてもいいのだろうか?
実に不思議で仕方がない。
そんな時代をもし、
「民主主義」
というのであれば、今の日本は、
「民主主義」
という言葉で片付けられるというのであれば、
「民主主義という言葉が欺瞞に満ちているか、その言葉を隠れ蓑にして、今の腐敗した政府が存在する」
と言っても過言ではない気がするのだ。
そう、昔からいわれてきた、
「自己犠牲」
というもののない政治体制。
あるとすれば、
「政府が、自分たちが苦しんでいるのに、他国に金を贈与したことで、正しいことをしたということを言い聞かせなければ、たまったものではない」
ということが、自己犠牲ということに結びついているとすれば、
それこそ、戦時中に行った、
「情報統制」
のようなものだと言ってもいいだろう。
当時の、
「治安維持法」
などというものを、民主主義では作ることはできないが、それでも、何とか、政府の、
「やりたい放題という法律」
をどうにかして作ろうとしているように思えてならない。
「国民にとって決めなければならないこと」
というものは、後回しにして、
「自分たちに都合のいい法律は、秒で決まる」
ということだけでも、
「政府が、どれだけのものか?」
ということが分かるというものだ。
そんな時代において、
「自己犠牲」
というものが、
「教育上の自己犠牲」
と、
「本当の政府がもくろむ自己犠牲」
とでは、
「天と地ほどの差がある」
と言ってもいいだろう。
それを考えると、世の中というものが、いかに理不尽で、
「縦割り社会だ」
と言えるのではないだろうか?
政府がこれでは、本当に、
「亡国の一途」
と言っても無理のないことに違いない。
そんな自己犠牲の時代において、中学生になった酒屋の息子である信二が、
「引きこもり」
になってしまった。
その原因が、
「学校での苛め」
というものにあったからだという。
その理由の一番が、やはり、家が老舗ということで、他の人と育ってきた環境がまったく違っていたり、それによって、
「お前だけ、見ている目線が違う」
という認識で見られていたりすることが、まわりを不快にさせたりする。
しかし、それは、本人のまったく予期せぬことであり、しかも、
「意に介するところではない」
ということにもなるというものだ。
さらに、もう一つあり、
「こっちの方が実は大きい」
ともいえ、
「信二にそのことを自覚させたい」
と思っているにも関わらず、まったく分かっていないということが、苛めている連中には、許せないところであるのかも知れない。
というのも、
「お菓子屋さんのなるみと仲がいいところだ」
ということである。
もちろん、二人は幼馴染なのだから、仲がいいのは当たり前のことであり、それをいまさら何だと言っても、変わるものではない。
しかし、なるみという女の子には、
「どこか人を引き付ける魅力がある」
と言えるのだ。
それは、
「引き付ける」
ということが、
「女性の魅力」
ということでもあり、
「人間性、特に、どこか高貴なところを感じさせるところ」
というものがあるからであり、さらに、それに比べて、信二の場合は、
「高貴な雰囲気をまったく感じさせず、酒屋の老舗の息子としては、バカ息子」
と言ってもよく、どちらかというと、
「自慢したいだけ」
というような、むしろ、どこにでもいる、
「常識のない男」
という雰囲気になっているのではないかと思うのだった。
そんな状態において、
「信二を見ていると、どうにも、なるみと似合うようには思えないのに、なぜか、なるみが信二を贔屓しているように見えて腹がたつようだ」
ということであった。
それを、
「なるみにぶつける」
ようなことはできるはずもなく、皆は、
「信二が悪い」
ということになるのは、それが、
「嫉妬から来ているものだ」
ということに気付いていないから、余計な迷走を繰り返しているのかも知れない。
と感じているに違いない。
「嫉妬」
というのは、信二に直接抱いているものもあるが、なるみに対して抱く嫉妬とは、
「似て非なる者」
と言えるのではないだろうか?
というのも、
「男と女の間にある、一般的な嫉妬」
あるいは、その人の技量を、例えば、
「羨ましい」
と思う、相手が隠し持っていたり、備えていたりするものが、
「嫉妬」
という形で現れる。
それが、もちろんのことのように、
「社会を、どの方向から見るか?」
ということで決まってくる発想であったり、自分のモットーだったりする。
作品名:「三すくみ」と「自己犠牲」 作家名:森本晃次