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広義の意味による研究

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 昔、戦国時代に、武田信玄という武将がいたが。彼の軍師として有名な、山本勘助という男がいた。
 通説としては、
「実在したかどうか、怪しい」
 と言われる人であるが、彼には霊感めいたものがあり、まわりに説明できる根拠のようなものを持ちあわせているわけではないが、実際に、彼の言うとおりに行動すれば、それが正解だったという意味で、ダジャレも含めて二なるのだろうが、
「ヤマカン」
 と言われるようになったという。
 彼の功績として、一番有名なものは、
「キツツキ戦術」
 というものであろう。
 これは、第四次川中島の合戦において、山本勘助が提案した作戦で、部隊を二つに分け、山に陣を張っている上杉軍を、夜の闇に紛れて夜襲を掛け、後ろから攻められる形で混乱させ、平地に追いやったところで、正面に、別動隊の武田軍が控えているので、そこで挟み撃ちにするというものだった。
 しかし、上杉軍は、武田軍の陣地から上がる煙を見て、怪しいと感じ。攻められる前に山を下りたのだ。そのせいで、武田軍は半分の手勢で、混乱していない十分な敵兵に立ち向かわなければいけなくなったというお話である。
 これは別に勘助が悪いわけではなく、相手が優れていたというだけで、別に勘助のすごさを妨げるものではない。ただ、この作戦の責任を取って、戦では先陣を切ったことで、勘助は討ち死にをしてしまうことになるが、彼の功績は歴史上語り継がれ、名軍師として、その名をとどろかせているのだった。
 第六感というものが、そんな霊感やヤマカンとは違うが、近いものだということを考えさせられたのが、
「年齢の高い人なら分かるかも?」
 というテレビ番組だった。
 どれだけ高い年齢かとうと、ほぼ作者と近いくらいの年齢で、
「まもなく、還暦」
 という人が多いのではないだろうか。(ちなみに作者の執筆時、令和三年十一月時点では、まだ還暦を迎えていないかも知れないが、これが実際に公開されるであろう予定では、すでに還暦になっている可能性が大きい)
 そのクイズ番組というのは、霊感とヤマカンと第六感というものを組み合わせたようなバラエティ番組だった。
 クイズ番組というよりも、対抗戦による、バラエティ色の強いゲーム形式と言った方がいいだろう。
 もうすでに、内容はほとんど覚えていない、結構長寿だったという記憶はある、自分が学生時代だったという意識からも、実際の長さよりも長寿だったという意識の方が強かったに違いない。
 だから、
「第六感と聞くと、霊感、ヤマカンを思い出させる」
 と感じるのだった。
 若い人たちの中には、
「この作者は、なぜ第六感という言葉を、霊感とヤマカンに結び付けたのだろう? ヤマカンなんて、本当の感というものとは違うではないか」
 と感じた人が多かったに違いない。
 それを思うと、昭和という時代、さらにバラエティ形式の当時のゲーム感覚がどのようなものだったのかということを思い起こさせるのだった。
 しかも、第六感というものは、さらに曖昧なものである。
 ヤマカンのように、山本勘助とこじつけて考える話もあるが、霊感というものすら、勘違いされている節が結構あるではないか。
 それを思えば、
「ハッキリとした人間の五感以外の、感と呼ばれるものは、そのほとんどが曖昧で、第六感という言葉の広義の意味に含まれるのではないか?」
 とも考えられるような気がしたのだ。
 五感のように、身体と密着して考えられるもの以外は、感覚というよりも、頭や脳による感覚であり、それが、普段とは違う感覚や感性を示した時、どれを第六感というのだというのであれば、
「普段の感覚では、考えることのできないような、不可思議な感覚を、すべて第六感という」
 と定義してしまうと、霊感も、ヤマカンもその部類に入るだろう。
 霊感というものを最初に考えた時、
「霊が及ぼすものなら、それは本人の感とは関係のないものなので、感覚とはいえないのではないか?」
 というものであった。
 例えば、酒に酔ったり、薬物の影響によって、幻覚を見たり、幻聴を聞いたりするものは、本人の感と言えるのだろうか?
 確かに、自分の中に潜在している感覚を、
「覚醒させる」
 という意味での、アルコールや薬物関係が、一種の媒体となっているだけだとすれば、幻覚や幻聴も、自分が見ることができるものだといえるのかも知れない。
 あくまでも、最後の一押し、つまり覚醒があるかないかというだけで、感情の中に潜んでいるものだとすれば、それも、一種の第六感ということになるので、幻覚、幻聴までもが本人の意識によるものだとすれば、第六感と言えるだろう。しかし、それは、
「意識であって、意思ではない」
 むしろ意思としては、表に出したくないもので、普段から抑制しているものであるとすれば、それを呼び起こすには、必ず何かの媒体が必要だと考えると、第六感とは言えないと思えた。
 ただ、
「自分の中にあるものを、本当は隠したいという思いがあるのに、それを逆に放出したいという表向きの意識とは違う意思が存在しているのかも知れない」
 というものが存在しているのではないかと考える人もいて、その意識が実際に第六感の中の一つの成分を彩っているのではないかと考えていた。
 なるほど、そんな考えも一つなのかも知れない。
「マイナスにマイナスを掛けると、プラスになる」
 というような感覚なのか、それとも、
「ブーメランのように、隠したいという意思が表に出るのを、ひそかに隠された意識がm反発を起こし、意思とは違っているかのような雰囲気を醸し出しているのかも知れない」
 と、感じているのかも知れない。
 後半の方が説得力があるように感じられるが、前半も専門家がそれなりの説明をすれば、説得力があるだろう。
 ただ、この思いはあくまでも、結果から考えた理屈であり、屁理屈と言ってもいいかも知れない。
 ただ、人間が感じるもので、五感以外にどんなものがあるのかと言われると、思い浮かぶのは、霊感、第六感ということになる、(この場合は、心理学的な面から考えると、ヤマカンは含めない方がいいのかも知れない)
 人間の心理の中で、大きな存在となるべき基本的なものを五感と考え、それ以外のものを第六感として漠然と表現するというやり方は、結構あるものなのかも知れない。
 五感というのは、人間に備わっているものとして、説明可能なもので、それぞれに、身体の一部がその感覚の核を担っているようで、分かりやすいといえるだろう。
 しかし、第六感となると、身体のどの部分がかかわるのか分からないものも多く、それ以上に、霊感などのように、自分を鍛錬することで、その域に導こうとする感覚であったりするのは、どこかにプラスアルファが存在し、敢えて苦境な状況に追い込むことで引き出す能力として、前述のブーメランのような感覚と似ているのかも知れない。
 いや逆に、霊感というものを考えた時に、ブーメラン減少が頭に思い浮かび、第六感としての力を引き出しても不思議はないと思ったのだ。
 この場合の第六感を考えた時、その反発させるために、霊感における鍛錬に当たるものとして、
「嫉妬心」
 や、
「やっかみ」
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次