広義の意味による研究
この前置きというのは、長すぎる感のあるものであったが、作者としては、面白く描かせてもらったことに感謝の意を表しながら、本編に移らせていただくことにしようと考えるのだった……。
世の中には、第六感というものがある――。
と、最初に書かせていただいたが、この第六感というのは、この言葉を聞いた時、
「普通の人が感じることのできないような、不思議な感覚」
ということが頭に浮かんでくる人が多いのではないだろうか。
第六感という言葉イコール、不思議な感覚という意味であり、第六感という言葉がどうして使われているのかということを、最初に違和感として思う人は、たぶんいないのではないだろうか。
そもそも、第六感というのは、確かに不思議な力ではあるが、言われているような、霊感のようなものでも、ヤマカンでもない。
そうなのかも知れないが、それだけに絞ってしまうと、せっかく、第六感と言ってしまうのでは、範囲が狭すぎるだろう。
そうでなければ、霊感でも、ヤマカンでも、それ以外に限定できることでも、そういえばいいのであって、
「似てはいるが、実際には違っている」
と言えるのではないだろうか。
人間に備わっている、視覚、聴覚、触覚などという五つの感覚とは異なるものとしての存在は、
「異次元」
という言葉と意味合いが似ているのかも知れない。
次元というのは、まず自分たちが存在している三次元という世界がある。そして、一次元、二次元という世界はどういうものなのかというのは、イメージ的には確立しているではないか。
一次元というものは、点と線でできた世界であり、二次元というのは、縦、横が確立した平面というもので成立している。そして、我々のいる三次元には、そこに高さという概念が存在することで、立体というものが確立してきて、それがそれぞれ同じ世界でも、次元が違うということで、概念としての、一次元、二次元が存在するのだった。
だが、四次元の世界というのは、一体どういうものなのだろうか?
一般的に、
「立体に、もう一つ、時間軸というものが存在すると考えられ、それを四次元と呼ぶ」
ということのようだが、概念としては理解できないわけでもないが、あまりにも漠然としている。
SFや特撮などで、四次元の世界というものを創造する映像はあるにはあるが、それを文章や、絵に表現するのは難しいだろう。
何しろ、時間という概念を、形に表すということは難しいことであり、確かに時間というのは、時系列として、
「流れている」
というものである。
時間というものは、前にただ進むだけの、誰にも動かすことのできないもので、そういう意味では、立体においての高さなどと同じように、最初から概念として授かったものであり、それだけに、創造するというのは、個人的な感覚としてはできても、それを大衆に証明するというのは、かなりの至難の業だといえるのではないだろうか。
特撮などにおける異次元、いわゆる四次元の世界というのは、実際に、同じ空間には存在しているものだという。
登場人物が何かのきっかけで、異次元世界への入り口を見つけてしまったことで、異次元の存在を予感したとしよう。しかも見つけるのは、少年少女のような、いたいけな子供たちであり、頭が凝り固まった大人では、考えられないことだろう。
例えば、空間で、微動だにしない鳥を見つけたとしよう。大人だったら、どう考えてしまうだろうか? 夢でも見ているのか、それとも、自分の気が狂ってしまったのかということを、まず疑うことだろう。
しかし、子供であれば、
「おかしなことになっている」
と、まず大人に相談するだろう。
大人だったら、的確な答えを教えてくれると思うからだが、子供はその現象を決して、自分が悪いから、そのようなものが見えているとは思わないだろう。
目の前のものを否定するのではなく、現象を認めたうえで、何とか納得しようと考えるのだ。
そこが大人と子供の違いで、実はこの違いが大きかったりする。
つまりは、その違いによって、
「大人には決して見ることのできない世界を、子供であれば見ることができるのかも知れない」
ということで、それらの世界を作り出した宇宙人が、子供を使って、子供には信じ込ませ、大人には逆に信じないように誘導する。
つまりは、
「オオカミ少年」
という童話のような感覚になるのではないだろうか。
そんな異次元の世界という発想は、SFや特撮に結構多いのだが、さらにそこにタイムマシンの発想が絡んでくると、その存在を否定する考えも生まれてくる。
それがいわゆる、
「タイムパラドックス」
というものであり、特にタイムマシンを使って、過去に行く時などにありえることだ。
そんな
「否定したくなるもの」
というものが存在する時点で、
「第六感というのも、そういう種類のものではないか?」
と考える人もいるようで、
「霊感や、ヤマカンとどう違うというのか?」
という疑問を元に考える人は、そもそもの霊感、さらにヤマカンについて考えるようになった。
第六感を、何かの超能力的な発想のものとして考えるのであれば、霊感という考えが一番最初に浮かんでくるものであろう。
霊感というと、
「霊が乗り移ったかのような、まるで潮来か何かの存在が考えられる」
という風に感じる人も多いだろうが、実際には少し違ったもののようだ。
霊という言葉が絡んでいるので、霊媒師などが関係しているように思われるが、どちらかというと、霊能者の方が近いのかも知れない。
修行僧と呼ばれる人たちが、断食や、不眠(お籠り)、あるいは、滝行などにおいて、疲労することによる生理的な条件、あるいは、山中、神殿、深夜の時間帯と言った慣用的条件を整えることによって、余計な意識が遠のいていき、理知的感覚がなくなってくることで得られる感覚を、霊感と呼ぶものとなるのだろう。
だから、実際に霊が乗り移ったわけではなく、もし、乗り移ったとしいぇも、それは、外的な要因ではなく、自らが求めることで感じ取るものなので、そういう意味で、
「超能力に近い」
と言っていいだろう。
超能力というのは、人間の脳は、実際の一部分しか使われておらず、実際に使っていない部分を使う能力を備えている人のことを、超能力者と呼ぶのだという。
つまり、超能力者も、別に他の人にはないものを持っているわけではなく、誰もが持っていて発揮堰内能力を発揮できるという意味で、
「他人よりも長けた能力を持っている」
と言えるのだろうが、この感覚も、霊感というものを、
「霊が乗り移ったという感覚と、自分が修行によって得られたものだ」
と考えるという意味で違っているといえるのではないだろうか。
第六感という言葉が曖昧なのは、そういう意味で、自分の内側に存在はしているが、それを引き出そうと自分が感じる感じないは別にして。他力であろうが、自力であろうが、出すことのできる、
「まるで超能力のようなものだ」
と言えるのではないだろうか。
さらに、ヤマカンという言葉があるが、これは、実際の感覚という意味ではない。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次