広義の意味による研究
だから、ここで発表している短編集というのは、過去作品と書いているように、今から十年くらい前まで書いていたものを発表していて、新作らしきものは、一つもないのだった。
最初の頃は、長編を書きたいと思っても、なかなか続かなかったのだ。
その理由としては、やはり集中して書いていて、毎日書いていても、集中力がまるで夢の世界のような感覚になるせいで、前回書いたことを思い出せないということで、話が続かないというのが、その理由だった。
しかも、一日に一時間ほどしか集中できないと思っていたので、一日で書ける分量は、文庫本でも、六ページから八ページと言ったところであろうか。
毎日書き続けられたから、相当な量にはなっているが、
「長編をいずれは書いてみたい」
と思いながら書けないという理由が、これでは薄いと思っていた。
「どこに原因があるのだろう?」
と思っていると、その理由が書けるようになってから分かったのだった。
その理由というのは、書けなかった時期の理由の元祖である、
「焦り」
からきているということだった。
焦りというものを感じると、集中しているつもりでも、どこかで、意識が飛んでしまい、違う観点に移っているのに、そのことを理解できない自分がいたのだ。
それがどこに表れるのかというと、
「自分には、プロットは書けないんだ」
という思い込みだったのである。
プロットというのは、
「小説における設計図」
と呼ばれるもので、ジャンルや、コンセプト、つまり、何が言いたいのかということであったり、一種の企画のようなものである。
それができれば、書き方の問題。一人称なのか、三人称なのか。つまりは、登場人物の中に作者がいるという形なのか、聞いた話を誰かが書いているという形式なのか、それが一人称と三人称の違いである。
そして、それが決まると、登場人物であったり、時代背景。そして、状況説明などと言った具体的な内容に入ってくる。
「起承転結」
という節目も小説には存在するもので、何を書きたいのかということを、自分の中でハッキリとさせるというのもプロットの書き方である。
ただ、プロットの書き方は決まっていない。あまり詳しすぎても、本編に入った瞬間に、書けなくなるというような人もいるくらいで、どこまで書くかというのも、ある意味で重要なことであった。
長編を掛けなかった理由の一番は、
「プロットが書けなかった」
というところにある。
「では、なぜプロットが書けなかったのか?」
と考えると、その理由の一番に考えられたのは、
「焦りからくるもので、まずは本編を書き始めないと、思っていることを書き続けることができない」
と勝手に思い込んだことが大きかったと思っている。
「プロットは必須」
と言われているが、まさにその通りだったと思うのだ。
ただ、プロットも、アイデアを箇条書きにする程度でよかった。それでも、プロットが書けるようになると、次第に長編への書き方もうまくできるようになったきた。
ちょうど、その転機となったのが、仕事における方向において、いくつかの諸事情によって、忙しくなったことで、小説を書く時間がなくなってきたことが原因だった。
本当に忙しい時は、会社に泊まり込んでの業務もあり、さすがに小説執筆を続けることが困難で、数か月ほど、筆を断つことを余儀なくされた時期があった。
それは自分にとって幸か不幸か、一歩立ち止まって考えることのできる時期でもあった。それまで、
「俺は短編しか書くことができないんだ」
と思い、短編ばかりにいそしんでいたが、いざ、
「いや、待てよ」
と思うと、
「今なら、プロットを書くこともできるかも知れないな」
と感じたのだ。
実際にプロットを書いてみた。
それまでは、小説を書くための道具として、メモ帳を持ち歩き、どこであろうとも気づいたことは、そこに書き込むという、
「ネタ帳」
として活用しているものがあった。
短編の時は、そのネタ帳の箇条書きとなった殴り書きの中から、適当に見繕って、小説を執筆するというやり方だったので、プロットを作成することもなかったが、一度立ち止まると、執筆するためにどうすればいいのかを考えることができるようになり、それがプロットであるということに気づいたのだ。
短編が書けるようになった時、つまり、最後まで書けるようになって、やっと、
「小説の書き方」
なる、ハウツー本を見るようになった。
普通であれば、小説を書けない時に、そんなハウツー本を見るものなのだろうが、作者の場合は違っていた。
「あくまでも、小説が書けるようになるまでは、自分の発想でできなければ、意味がないのではないか」
と思っていた。
なぜなら、
「ハウツー本に書かれていることは、しょせん、分かり切ったことが書かれていて、すでに自分が感じていることがほとんど書かれていることで、がっかりするかも知れない」
と思ったからだ。
実際に後から見たハウツー本は、目からうろこが落ちるような話が書いてあったわけではない。もし書いてあったとしても、自分が書けるようになるためには、そのことは自分で気づかなければいけないことだと感じたのだ。
そもそも、小説を書けるようになる基準となるのは、
「最後まで書ききることができるか?」
ということであった。
書き切ることができるようになって初めて、
「これだったんだ」
と気づく。
それまでは、小説を書き切ることができるために書いているという意識はあったが、それが分岐点になる大げさなものだということに気づいていなかった。それに気づくには、きっとハウツー本では気づけるわけもなく、自分が小説を最後まで書き切ったということへの達成感や、自信というものが、リアルに感じられなければ意味はないだろう。
ハウツー本を見ても、
「そんなの当たり前のことだよな」
と感じてしまうと、目標にして頑張っているものが、ただの通過点としてしか感じなければ、それは本末転倒であると考えられたのだ。
それを感じさせたのが、実際に書けるようになって、初めて開いたハウツー本だった。
本を読んでいくと、確かに、
「分かり切ったことじゃないか」
と思っていたことの羅列だった。
その中に、
「何があっても、最後まで書き切ることが一番大切だ」
と書かれていて、自分が身をもって証明したことと同じことが書かれているのを感じると、自分の感性への自信であったり、そして、これからも、執筆をし続けてもいいという、一種の免罪符のようなものをもらったという意識になったのだった。
執筆することによって得られる満足感は、受験などの目標に向かっての努力が報われる勉強などの達成感とは違うものがあった。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次