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広義の意味による研究

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 そう思うと、もう一つ思ったのが、
「妄想で言葉を発することができるのであれば、それを文章にして起こすことだってできるじゃないか」
 という感覚だった。
「しゃべっているつもりで、書けばいいだけだ」
 というだけの発想が、なぜ今まで浮かんでこなかったのかということが不思議で仕方がなかったのだ。
 何しろ、今回は、あれだけダメだと思ってことを諦めずに、発想の転換をして、書く場所を変えてみたりしたではないか。その時にも、いろいろ考えていたはずなのに、こんな簡単なことを思い浮かばなかったというのは、それだけ、無意識の焦りを感じていたからなのか、
「しょせん、小説なんか書けるはずがない」
 と最終的にそこに思いが言っていたからなのか分からない。
 そんなことを思っていると、書けるものも書けないということに気づいてしまって、また諦めていたかも知れない。
 小説を書けるようになるのに、本当はそんなに苦労はいらなかったのではないかと今から考えれば思う。小説を、どうせ書けないと思っていた、その思い込みというのは、
「自分のまわりに小説を書いているという人が、まずおらず、実際に小説を書いているという人に出会ったこともない」
 という思いがあったからだ。
 絵を描いている人や、マンガを描いているという人は、結構いるような気がする。実際に喫茶店などに行くと、絵を描いている人もいたりする。昔の、昭和の名残のあり喫茶店などでは、スケッチブックのようなものを置いていて、雑記帳として、
「来店記念」
 ということで、何を書いても構わないという、洒落たお店もあり、実際に知っていた。
 そんなお店を知っていることを自分のトレンドだと思っていたのも、きっとそのお店に行くようになったのが、
「小説を書けるような気がする」
 と、感じれるようになったからだった。
 実際に、
「しゃべれるんだから、書けるはずだ」
 という思いは自分の中に、センセーショナルな風を持ち込んだのは事実だった。
 その思いが自分の中での分岐点になったのは間違いのないことで、それから、それまでまったく進まなかった文章が少しずつ続いてくるようになったのだ。
 そして、その後に感じた分岐点は、
「途中で気に入らないと思っても、投げ出すのではなく、とにかく何があっても、最後まで書ききる」
 ということが大切だと感じたことだった。
 これは、自分でも、
「なかなか素晴らしい考えだ」
 と思ったが、後になってから読んだ、
「小説の書き方」
 のような、ハウツー本が、少なくはあるが、売られているのを読んだ時、執筆者の先生も、まったく同じことを書いていた。
「まず最初の段階では、どんな話でもいいから、最後まで書ききることだ」
 という言葉を読んだ時、
「これからも、自分は書き続けてもいいんだ」
 ということを、自覚させてもらえた気がしたのだった。
 そう思えるようになると、小説を書くのが面白くなってきた。書くということを、それまでは苦痛でしかなく、
「苦痛だからこそ、できた時の満足感はハンパなものではない」
 と思い、それが楽しかったりしたものだ。
 だが、実際には違っていた。
「面白くても、書いていて楽しくても、完成すれば、同じ喜びと達成感を味わうことができる」
 と思った。
 まったく同じものではないのだが、レベルという意味では大差のないものだと思い、あったとしても、その場合の差異は、
「誤差の範囲だ」
 と言ってもいいだろう。
 その頃になると、毎日書くようになっていた。その理由の一つとして、
「何か、忘れっぽくなった」
 という思いがあったからだ。
 なぜ、そんなことを思ったのか、最初の頃にはよく分からなかったが、分かってくると実に簡単なことだった。
「小説を集中して書いていると、時間を忘れて、自分の世界に入る」
 というのが、一番の理由で、
「書いていて十分くらいにしか感じられないのだが、実際には一時間くらい書いている。だから、十分でこんなにも書けたということで、まるで自分を天才にでもなったのかと勘違いしてしまうのだが、それも、いい意味での勘違いで、それだけ集中しているということであり、自分の世界に嵌りこんでいるということだ」
 と感じたのだ。
 つまり、小説を書いている時間は、普段の自分とは違う時間で、集中力も違っているのは当たり前のことだ。のめりこんでいるというのか、元々、そんな時間を手に入れたくて、小説を書こうと思っていたのだと感じるほどだ。
 この思いは、錯覚ではない。確かにそう思っていた。だからこそ、時間があっという間に過ぎてしまったような気がして、その時の小説執筆タイムが終わると、完全に我に返ってしまい、
「それまで書いていたことを、忘れてしまう」
 という状況に嵌ってしまうのだった。
 まるで、夢を見ていたような感覚であり、それが小説を書いているうえでは大切なことだと思うのだが、次回書く時には、
「果たして、前の時の心境に戻ることができるだろうか?」
 と感じる。
 それは実際には難しいことであった。それは、まるで夢を見ている時、
「前に見た夢の続きは決して見ることができないものだ」
 というものであり、夢が一筋縄ではないということを表しているような気がした。
 しかし、夢というのは、その反面、
「実に都合のいいもの」
 という発想も持っていた。
 自分の中で感じていることを見れないように思うのだが、潜在意識に対しては忠実なのだ。だからこそ、
「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」
 という感覚になるのだった。
 しかも、夢というのは、
「どんなに長い夢であっても、目が覚める数秒間で見るものだ」
 というではないか。
 信じられない気持ちにもなるが、確かに、目が覚めてくるにしたがって、現実に引き戻される間に、確実に夢は忘れていくものだ。
 そして、その忘却の彼方に見えるものは、やはり、
「どんなに長い夢であっても、目が覚める数秒間で見るものだ」
 というものであり、それが決して錯覚ではないということを自分なりに理解できているように思えたのだ。
 その思いがあるからこそ、夢のように感じる小説執筆は、どんなに次に書く時の感覚が短くても、夢に陥るかのような自分なりの感覚を持たないと、続きを書くことはできないのではないかと感じるのだった。
 以前から、小説が書けないと思っていた頃のことを思い出すと、
「やはり、焦りのようなものがあったんだな」
 という感覚に陥る。
 それは、小学生の頃の国語のテストに始まった「焦り」というものから、本を読もうとすると、集中できずに、そのため、本を読むことができず、いつも、セリフだけを読んでしまうということになるのだが、そのくせが小説を書けるようになっても、完全に抜けていないということに気づいたのだった。
 確かに小説を書き始めた頃のことを思い出すと、今でこそ、文庫本でいえば、百五十ページくらいの中編を、書き続けられるようになったのだが、最初の頃から約十年近くというのは、短編しか書けなかった。文庫本でいえば、四十ページ前後くらいのもので、発表している、
「短編集の一つの話」
 が、それくらいになるのだ。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次