広義の意味による研究
という思いに変わってくることで、実際に書けるようになったのだ。
そして、まわりの環境も大切だと思った。
まわりの様子を見ていると、いろいろな人がいて、少し大げさだが、
「人生の縮図」
と言えるような感覚になってきた。
最初こそ、執筆に集中し、まわりをいかに意識しないことが執筆の秘訣なのかということを考えていたが、ふとまわりを見てみると、いろいろな人がいて、今まではうるさいと思っていたその会話も、次第に自分の中で妄想が膨らんでくるのを感じた。
「この人たちは、カップルなのかな?」
と感じ、
「もうすぐ結婚するのかな? それには、家族への説得から始まって、住む家だとか、新生活を始めるための思いもしっかり持っていないといけないな。だけど、その思いは決して大変なだけではなく、きっと楽しいものなんだろうか?」
と思うようになっていた。
作者は、一度手に入れたと思っていた幸せを逃してしまった。自分が悪いのか、何が悪いのか、今でもハッキリとは分からない。
しかし、一度は幸せになろうと考えたのは間違いのないことだったはずだ。それを思いそうとすると、辛かった思い出の方が近いはずなのに、それを飛び越して、幸せしか見えていなかった自分を思い出すことができる。ただ、その時に一緒に感じていた、
「言い知れぬ不安」
も一緒に思い出し、途中でその不安の正体を理解したはずなのに、妄想の中にいる自分は、その不安が何なのかまったく分からない。
妄想にとりつかれている自分は、妄想を感じた時の感覚がまるでパッケージのようになっていて、その思いは、後から変わっていったことであったとしても、すべては、同じ時間、同じ次元で感じたことでしかないのだ。
そうでなければ、少しでも違う世界ができてしまって、思い出したい妄想とはまったく違ったものに辿り着いてしまうことになるだろう。
自分が小説を真剣に書き始めたのは、ちょうどそんな頃で、幸せを逃がしてしまった自分が、
「何を頼りに生きていけばいいんだ」
と考えた時、以前見た、阪神大震災の悲惨な状況を思い出し、
「やはり、世の中何が起こるか分からない。明日には、もうこの世にいないかも知れないからな」
と、さらに強く思うようになり、その思いが次第に、小説を書けるようになる力となっていったことを、自分なりに納得のいく理解をしていたように感じたのだ。
「納得のいく理解」
それこそが、自分が何をしたいのかということを自覚するための、最低限の感情ではないかと思うようになった。
それが、きっと転機になったのだろう。
小説執筆への概念
そのうちに、環境にも慣れてきた。うるさいが気にならなくなったのは、自分で思っていたよりも、集中力というものが備わっていたということであろうか。これは、小説という趣味に対してだけのことなのか、元々の自分の性格なのか、どちらなのか分からない。他の人だったら、
「きっと、後者の方がいい」
と思うものなのだろうが、自分にとっては、前者だった。
それだけ、自分にとって小説を書けるようになるということが大切であり、それまで培って育ててきた自分というものを、家族を失ったことで、すべてをなくしたような気になってしまったのだろう。
それまでの人生に、紆余曲折はあったが、なんだかんだ言って、前を向いて進んでくることができた。ここまで大きな挫折は初めてであり、
「すべてをなくしてしまったんだ」
と感じたのは、この時だったのだ。
何をしても心が休まらない。下手に動けばまたいずれすべてを失うことになるという風にしか考えられなくなっていたのだ。
ただ、すべてが悪いだけではなかった。正直、有頂天になっている時や、紆余曲折の中での小さな波に揺られている間は気づかなかったのだが、
「焦りすらも、自分の中で何とかなってきたことが、前だけを向いていてもよかった時期だった」
と言えるかも知れない。
だから、小説が書けなかった。
「小説は、書けなくても当たり前なんだ」
という思いが、焦りが書けない原因だったということに気づかせてくれなかった。
しかし、一度、すべてを失うほどの挫折を味わってしまうと、その時初めて、自分が絶えず焦りまくっていたということに気づいたのだ。
「焦りというものに、今まで気づいていなかったなんて……」
と、我ながら驚かされた。
もちろん、勉強が手につかなかった時も、読書をしていた時も、思ったようにうまくいかなかったのは分かっていた。
その理由が、
「自分は集中できない性格で、それが後ろ向きになっているので、前しか見えていなかった自分には、集中できないということがなぜなのか、分かっていなかった」
ということであった。
すべてを失うくらいの挫折を味わったおかげで、その集中できない理由が、焦りであったことに気づくと、
「そっか、本を読むのに、斜め読みしかできないのも、勉強で集中できないのも、小説を書こうと思っていろいろやってみるが集中できないと思うのも、すべて、この焦りというものが原因だったんだ」
と分かったのだった。
それともう一つ、
「小説なんて、自分にはできるはずがない」
という意識が強すぎることが足を引っ張っていた。
しかし、
「そんな小説だからこそ、書けるようになるのが、自分のトレンドなんだ」
と感じたのも事実であり、すぐに書くのをあきらめるという悪い癖も、大きな書けなかった理由の一つに違いなかった。
しかし、今回は結構粘っている。
このままではダメだと思うと、書く場所を変えてみるという、それなりの発想の転換を、一度だけでなく、数回やってみた。そして、今回は、たどり着いたファミレスで、
「原稿用紙がダメなんだ」
と思い、縦書きから、慣れ親しんだ横書きにすることで、
「思っているような文章が書けるのではないか?」
と感じたのだ。
そう思うと、ファミレスという場所の選択が間違っていなかったということに気づかされる。
うるさいという欠点はあったが、その分、
「生きた素材というべきか、状況観察や、人物観察をするという意味で、これ以上の場所はないではないか」
ということに気づかされたのである。
人物観察や状況観察ができるようになると、やってみたくなるのが、その場の、実況であった。
別にアナウンサーになったと思うわけではないのだが、その人がどのようなことをしているのかということを口に出していると思うと、その先を想像できる気がしてくるのだ。
もちろん、実際に声に出すわけではない。恥ずかしいから、妄想にすぎないのだが、妄想だからこそ、余計に先のことが想像できるような気がするのだった。
アナウンサーというものが、特にラジオのスポーツ放送などでは、決して言葉を切るわけにはいかない。確か、数秒、ラジオのスポーツ中継で、声を発しなければ、放送事故になるという話も聞いたことがあったからだ。
つまり、
「先のことを想像するというのは、言葉をとぎらせないためであり、言葉をとぎらせないようにするには、先のことを想像するのが一番の方法なのだ」
ということができるのではないだろうか。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次