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広義の意味による研究

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 図書館の自習室で、机に向かって原稿用紙と睨めっこをしていると、まわりが変に気になっていた。
 高校生や中学生と言った受験生が勉強しにきているのだが、すぐに気が散るのか、すぐに別のところに行ってしまうので、自習室は絶えず、カバン置き場と化してしまっているのだった。
 友達と連れ立ってきている連中は、特にひどく、どこに行っているのか分からないが、明らかに勉強する意思などないのではないかと思えるのだ。
 実際に、勉強する意思があったとしても、友達と一緒に来ている時点でアウトである。自分が学生時代も似たようなものだっただけに、通り過ぎてしまうと、あの時の自分がどれほど不真面目だったのかということが分かり、穴があったら入りたい気分だったに違いない。
 そんなことを思い出していると、
「今の自分も気が散っているというのは、あの時の心境に戻っている証拠だ」
 と思い、こんな環境で、小説など書けるはずはないと思うのだった。
 受験勉強と小説の執筆、どっちが苦しいのかというのは、一概には言えない。次元が違うというべきか、比較するのは、ナンセンスだといえるのではないだろうか。
 図書館というところ、しかも自習室という、静かさを強制させられるような場所では、空気が薄くなっていて。聞こえてくるのは、自分の胸の鼓動だけではないか。それを中学、高校時代に感じたはずなのに、どうしても、図書館に来てしまうのだった。
 それも、友達と一緒というのが、デフォルトだった。
 それを思うと、図書館という場所は、悪魔のささやきが聞こえる場所だとしか思えなくなっていたのだった。
 ただ、そうなると、静かな場所での執筆は、もう不可能だということになる。自宅であっても、誘惑に負けてしまう。それは受験勉強している時もしかりだった。自宅でやっていると、どうしても、テレビやラジオなどという誘惑に負けてしまい、ついつい、気が付けば、テレビをつけていて、見てしまっていたりしたものだからだ。
 だから、自分だけではなく、他の連中も図書館に行くのだろう。
「図書館の自習室にいけば、勉強ができるかも知れない」
 という意識に駆られるのだ。
 それが錯覚であるということを自分で分からずに、友達まで誘って……。
 完全に、帰りに友達とファミレスか、ファストフードの店で、ジャンクフードでも食べながら、騒ごうという魂胆が見え見えではないか。
 図書館ではまともに勉強ができたのかというと、思っていたほどできるわけはない。図書館という環境にいるだけで、
「勉強ができたような気がする」
 という錯覚にとらわれ、さらに、その日の勉強の打ち上げのつもりで、友達数人と、何もかも忘れて、騒げればいいと思うのだった。
 そうすれば、勉強ができなかったという意識が次第に薄れていき、罪悪感が消えていくような気がするのだ。
 勉強が思ったより進まなかったという罪悪感はあるのに、それを甘んじて受け入れるわけではなく、何とかごまかそうとする。
「それくらいなら、最初からごまかしの利くような勉強方法を取らなければいいのに……」
 と、どうして考えないのか。
 毎回毎回同じことを繰り返すのだが、最終的には受験には成功したのだ。
 というのも、自分に限らず、一緒につるんでいた連中は、皆、
「ギリギリになららいと行動しない」
 という性格だったのだ。
 小学生の頃の夏休みの宿題も、
「最後の何日かで、必死に片付けるというのが、夏休みのパターンだった」
 という連中ばかりである。
 最後の数日で、顔色を変えて、必死になって勉強したり、絵日記の材料を仕入れに図書館に行ったりした。
 今のようにネットで天気予報を調べられる時代ではないので、過去の天気を調べるには、過去の新聞を見るしかない。
 自宅も新聞が数日は溜まっているが、夏休み全体を記しただけのストックがあるわけではない。当時、夏休みの毎日の天気は気温を調べるには、図書館に行くしかなかったのだ。
 図書館であれば、資料室のようなところに入れば、何年も前の新聞だって見ることができる。それを知っていた作者は、図書館まで調べに行ったものだ。往復歩いて一時間、結構距離もあり、せっかくの夏休みで、たったそれだけのためにまだ残暑の残る中、汗を拭き拭き図書館まで歩いていったものだった。
 その時の心境は、何ともいえない情けないものだった。
「毎日つけていれば。こんな面倒くさいことをする必要なんかないのに」
 と、確かに、夏休みに入って最初の数日は絵日記を真面目につけていた。
 しかし、今まで小学生の六年間のうちで、夏休みが約一か月半だとしても、実際につけていたのは、二、三日がいいところだった。
 だが、挫折をしたという意識はなかったのだ。気が付けば、つけなくなっていたといった方がいいかも知れない。
 だから、
「ギリギリにならなければ、行動しない」
 というパターンに嵌りこんでいた。
 しかし、これは自分に限ったことではなかった。まわりの連中も皆一緒だと思うと、集団意識というものが働いて、自分の考えがまともだったんだと思うと、変な安心感が芽生えてくるのだ。
 本当は、よくないことだと思っているにも関わらず、
「皆一緒じゃないか」
 と思うのだが、そのくせ、作者は、
「人と同じでは嫌なんだ」
 という部分を持っていた。
 それは、矛盾しているように思えるが、その時々の状況で違っていると思うから、自分を納得させることができる。しかし、それはあくまでも言い訳でしかない。そのことを、小説を書き始めて、結局図書館や自宅などの静かなところですることは不可能であると感じるようになったからだった。
 次に考えたのは、ファミレスで書くことだった。ファミレスであれば、テーブル席でも、相席ということはなく、気軽に書けると思ったからだ。ランチタイムやディナータイムさえずらせば大丈夫だと思った。
 確かに騒がしい人もいるかも知れないが、家族連れが多いディナータイム、サラリーマンの多いランチタイム、おばさん連中が多いアフタヌーン、そして、学生がタムロする深夜帯さえ避ければ、結構ゆっくりできるというものだ。
 仕事が終わる時間が、残業を含めると、八時前くらいである。さすがにそれくらいの時間になると、家族連れによるディナータイムは過ぎていて、ゆったりとした時間が過ごせた。
 夕食をそこで済ませながら、小説を書く。食事をしながら書くこともあったが、食事を済ませて、ドリンクタイム、コーヒーを飲みながら小説を書くというのが嵌ってしまった。
 毎日というわけにもいかず、二日か三日に一度くらいであったが、それでも、執筆時間を一時間くらいと決めて書いていると、逆に書ける気がしたのだ。
 今までは、決まった量を書こうと考えていたのだが、それがそもそもの間違いだったのだ。どんなに途中であっても、キリのいいところでやめるというのも、実は勇気がいることで、その勇気を持つことができると、意外と書けるようになった気がした。
「一時間だから、これくらい書ければいいな」
 という思いを持って書いていると、
「今日の体調や、頭の回転を考えると、これくらいなら書けるだろう」
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次