広義の意味による研究
「借りてきたのであれば、絶対にまともに読もうという気にはならないだろうからな」
と感じたからだった。
それでも、自分で買った本でも、最初の頃は真面目に読んでいたのだが、いつも間にか、適当なところで、斜め読みをするようになっていた。無意識だったので、どこから中途半端な読み方をしているのか分からずに、結局、ハッキリと分からないということになってしまうことが多かった。
だが、それらの有名な小説は、幸か不幸か、テレビドラマとなって映像で見ることができる。
ただ、中には、内容を変えているものもあり、原作に忠実な映像でないものもあるのだが、友達に教えてもらって、やっと分かるのだが、やはり、小学生の国語のテストでの焦りが、本を読む時に、無意識に肝心なところを読み飛ばしてしまっているというのを感じさせられるのだ。
だが、それでもなかなか本を読むというハードルは高く、
「セリフ部分だけを読んでいる」
と言ってもいいだろう。
だから、セリフの少ない小説は苦手だった。
なぜ、自分が小説を読むことができなかったのかというと、一つは小学生の時に感じた、テストの時の焦りが、そのまま時間配分のできない自分を映し出しているように思えてならなかった。
そして、もう一つは、文章をまるで映像を見ているつもりになって読んでいると、少し前に読んだことを覚えていないという感覚になるのだった。
本当に忘れてしまったのか、それぞれのシーンにおいて、時間とともに流れていくしシュエ―ションを自分の中で解釈できないままに進んでしまうのだ。
小説家というのは、文章を少しでも膨らませて書こうとしながらも、さらにそこから不要な部分をカットしようと考えるだろうから、読んでいる方は、そのことを理解していないと、読んでいて、内容が途中で飛んでしまうのではないかと感じるのだった。
だから、ついつい、セリフばかりを読んでしまうのだ。流れに身を任せていると、自分が本の世界に入り込んでいて、その間は覚えているにも関わらず、二、三十分でも集中して読んでいると、たった数分しか経っていないような錯覚に陥り、実際の時間がどれほど経ってしまったのかということに気づかされて、集中していた時間の中に、かなりの空洞が生まれてしまう。その空洞が本来であれば、三十分程度のはずなのに、さらに遠くにあるかのように思わせることで、果てしなく前のことだったように思うのだろう。
小説を書いている時は、逆にその作用がいい方に働くのだが、本を読むのが苦手だということがどこから来るのかということを考えると、最終的に、
「集中できないことだ」
と感じることだった。
実際の感覚と、実際の時間との間にギャップがある以上。その集中していた時間をすっ飛ばして考えると、目に見えないくらいの遠くに存在しているかのように感じるのであった。
だが、中学時代にブームだからと言って、読んでいただけのことで、実際にドラマや映画を見ているだけで、満足に思うところがどこかにあった。
それが、大学生になった時、同じクラスの友達と、趣味の話をした時、彼らも、探偵小説のファンであるということが分かった。
「もう、内容忘れちゃったからな。もう一度読み直してみようかな?」
と一人がいうと、
「そうだよな。あの名作は何度読んでも、いいものはいいからな。むしろ、何度も読み直すことで、今まで気づかなかった作品の裏側が見えてくるような気がするんだ。特に時代背景がまったく違う作品を想像しながら読んでいると、自分勝手に想像できて、それはそれで面白言うんじゃないかな?」
ともう一人が言った。
そして、三人で、再度読み直してみることにしたのだ。
大学に入ると、今度は精神的に余裕が出てきた。焦りというものはなくなり、小説をじっくりと読めるようになっていた。
「中学時代にドラマ化されたりしたのを、見たりしたかい?」
と聞くと、
「ああ、ほとんど見たよ。今でもたまに、再放送があったりするので、最近では、ビデオに撮って、見返したりしているよ」
という友達もいた。
さすがに、当時はまだビデオが一家に一台というほど普及しているわけではなく、下宿生活をしていた作者にはビデオがあったわけではない。
友達の家に見せてもらいに行ったものだったが。中学時代に仲の良かった友達は、火事カセとテレビに繋ぎ、録音し、それを編集して、BGM集を作るということをしていた。
元の録音テープを、目を瞑りながら聞いていると、
「まるで、映像が想像できるようだ」
と思ったほどだ。
時々友達から、そのBGM集のカセットを借りて、自分の家でBGM集を聞きながら、本を読むと、中学時代であっても、冷静に本を読むことができるようになっていたのだ。
だが、その頃にはある程度ブームは過ぎ去っていたので、わざわざカセットを借りてまで、聞きながら本を読むというところまではしなかった。
ただ、その頃から、
「小説を書けるようになれればいいよな」
と漠然と考えるようになっていて、それまで芸術的なことには一切興味を持っていなかった自分が、初めて、
「できるなら、やってみたい」
と思ったことだったのだ。
「俺も小説を書いてみたい」
と、それから何度か思い、チャレンジしてみたが、なかなかうまくいかなかった。
「小説というのは難しいもので、そう簡単に書けるものではない」
という思いと、
「これまで、本をまともに読むこともできなかった」
と思っている人間が、そう簡単に書けるはずもない。
そう思うと、意外とすぐに挫折していた。
しかし、何度も挫折していく中で、次第に書こう、あるいは、書けるかも知れないという思いが芽生えてきたのか、書けないまでも、書いてみようという思いの期間は想像よりも長くなっていった。
それでも、何とか書けるようになったのが、今から二十五年くらい前だっただろうか。そのきっかけというのが、
「阪神大震災の映像を、テレビで見た時」
だったのだ。
その時の衝撃は自分でもmどう表現していいのか分からない。
あの光景を小説にしようなどという思いはサラサラなかった。気持ちの中に何があったのかというと、
「人間、いつどこでどうなるか、分からない」
ということであった。
いくら、人とうまくやっても、自分にこれからの人生のためだと言い聞かせたとしても、その時に満足が行っていなかったり、不満があるのだとすれば、我慢することなどないような気がした。
何しろ、
「明日はどうなるか、分からない」
と思わせるだけのショッキングな光景だったからだ。
ただ、ちょうどその少し前くらいから、
「今なら小説を書けるかも知れない」
と感じた時期があった。
何度目かの小説執筆へのチャレンジで、いよいよ書けるようになる下準備が整っていた時期だったのかも知れない。
いつもだったら、家で机に向かって、原稿用紙を広げて、浮かんでこないアイデアを考えながら頭を抱えることにすぐ、飽きてしまっていたはずなのに、その時は。方向転換をしてみるという気持ち的な余裕があった。
最初に考えたのが、
「図書館に行ってみよう」
ということであった。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次