広義の意味による研究
だから、今でもよく読まれている歴史小説は、主人公が、真田親子であったり、伊達政宗であったりする。面白いところでは、小説世界では、豊臣の配下の武将と、徳川配下の武将が、独立して、真田幸村を大将とした武将集団を結成したりして、面白おかしく書かれていたりする。
ただ、日本人は判官びいきなので、シュミレーション小説ともなると、
「豊臣方が正義で、徳川が悪」
として、歴史がひっくり返るようなシュミレーションになっているのだった。
歴史が好きなあすみは、そんな発想を時々していた。そして、歴史小説を読みながら、思いを戦国時代に馳せていたりしたのだが、歴史ばかりではなく、SFとしての、パラレルワールドにも興味を持った。
そして、そんなSFとしてのパラレルワールドには、人間の中の心理が影響しているのではないかと思うようになった。
そのきっかけになったのが、かくいう、
「感と勘の違い」
という小説であり、その中に書かれている、三つの説に引き込まれていったからだった。
その三つの説を考えていて、
「何か、親密な感覚を覚えるんだけど、何が原因なんだろう?」
と思ったが、すぐには分からなかった。
それも、最近考えたことなのか、学生時代に考えたことなのかもハッキリしない。
そもそも、一回だけだという思いもないので、その両方だったともいえるが、その一番近かったのがいつだったのかということも、ハッキリとはしないのだった。
それを思い出させたのが、ある日、夢から覚めた時だったというのは実に皮肉なことだった。
なぜなら、その感じたことというのが、
「夢と現実の狭間」
という感覚だったからだ。
それを、夢を見ていて感じるというのだから。これ以上、皮肉めいたことはないと感じたのだ。
確かに夢と現実というのは、昼と夜の世界のように、
「片方が表に出ている時は、もう片方は隠れている」
というものである。
「夢を見ている時は、現実の自分ではないにも関わらず、現実の自分の考えていることが分かるようだが、逆に現実の自分は、見た夢のことを、断片的に思い出すことができたとしても、それ以上思い出そうとして考えてしまうと、五里霧中の状態になってしまい、せっかく考えていたことまで忘れてしまうかのようになってしまう:
と感じるのだ。
夢から現実を考えることはできるが、現実から夢を感じようとすると、そこには、結界かバリアのようなものが張られていて、決して見ることができないという狭間が存在しているようだ。
「それだけ、夢というものが、現実よりも神秘な世界にあって、現実で考えている間は、決して、自分が感じているすべてのことを理解することは不可能なのだ」
と言えるだろう。
夢というものが、最優先され、現実は二の次だとすると、現実の世界で起こっていることは、自然に起こっていることのように感じるが、
「実は夢の世界から、支配されているものではないのだろうか?」
ともいえるのではないだろうか。
それは、まるでマジックミラーのようなものではないか。
こちらからは見えるが、相手からは見えない。逆であれば、相手からも見えている。
片方は鏡になっていて、片方は何でも通すガラスでしかない。それをマジックミラーだというのだが、そのマジックミラーの仕掛けは、光の強さの、その加減によるものだといえるだろう。
電車や車などに乗っていて、夜などの暗い時に走行していると、車だったら、室内の明かりは決してつけない。電車でも、客車は出にがついていても、運転席にはその光が及ばないようにブラインドを下ろしたり、光が来ないように、すりガラスになっていたりするではないか。
つまりは、マジックミラーの仕掛けというのは、
「裏と表の光の強さによるものだ」
と言えるのではないだろうか。
それが、夢と現実におけるバランスが、まるでマジックミラーのように見えて、そのマジックミラーが、夢と現実の間にある、結界のような狭間を作っているといえるのではないだろうか。
だから、現実側から見ると、鏡になっていて、夢の側から見ると、ガラスのようにsけて見えるのだ。
ここで一番大きな問題は、
「鏡でなければ、自分の姿を確認することができない」
ということだ。
自分の姿は、鏡のように反射するものが、画像か映像で映した媒体によるものでなければ確認することはできない。
それが、
「鏡というものの存在を肯定するものであり、理由でもあるのではないか?」
と感じさせるのであった。
そして、この両側から見えているものが、
「どちらも鏡だということになると、それが、感と勘の違いということになるのではないか?」
と感じたのだ、
特に最後の説である、
「マトリョシカのように、入れ子になったものが、感と勘の違いだ」
という話を見た時、その説明の中にあった。
「自分の左右に鏡を置いて、どちらかを見た時、どのように見えるか?」
という発想で、
「夢と現実では、お互いがどちらも鏡でもガラスでもない状態の不安定なもの」
というようなことを感じたので、本来なら、違うものとして考えなければいけないのだろうが、パラレルワールドという発想からも、まったく別のものとして考えることは難しかった。
それを思うと。あの本の中にあった、
「負のスパイラル」
として、DNA細胞のように、螺旋階段が重なっているものを感じると、何となくであるが、
「夢と現実の狭間」
を感じてしまうのだ。
ここで重要なのは、
「狭間」
という言葉がついていることだ。
二つのあいだに自分の身体を置いた時、片方は鏡に見えて、片方は、ガラスのように向こうが見えてしまう。そうなると、鏡のある、夢の側でしか、自分を見ることができないわけだが、夢の中で自分というものを絶えず見るわけではない。
むしろ、見ることができないといってもいいだろう。
逆に自分が見えてしまうと、これほどの恐怖はなく、そんな夢を見てしまうと、見た夢を忘れてしまいたいと思っているのに、忘れることなく目が覚めてしまう。そのため、恐怖がずっと残ってしまって、果たしてどうすればいいのか分からない状態になってしまうのだった。
小説を読んでいる間に、そこまで考えたわけではない。
最初によみ終えた時、何かゾクゾクしたものが、どこかにあった。それが何か分からずに読み直していると、それが、自分の気持ちの中で、
「何かに似ている」
と感じたのだった。
再度、読み返したのだが、この時は二度目に読み直した時よりも、さらに時間を開けた。
最初は、三日ほど期間を開けたのだが、二回目から三回目の時は、二週間ほど開けたのだった。
その期間の根拠は、
「これ以上、読まないでいると、前に読んだ内容を忘れてしまいそうになる」
と感じたことと、
「これ以上読まないで放っておくと、再読しようという気が起こらない」
と感覚に到達していたことの二つであった。
まさか、この二つが、感覚的に一致したものだったなんて、思ってもいなかった。
まったく違った感覚だと思っていたのに、どうしてそんな風に感じたのかということを考えると、
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次