広義の意味による研究
最後の章では、今度はそれらの三つの話を、別の説として考えるわけではなく、確かに次元が別ではあるが、まるで、次元は違うが、空間は同じという感覚で、まるで四次元の世界を彷彿させる発想であり、
「並行世界」
あるいは、
「並行宇宙」
と呼ばれている。
いわゆる、パラレルワールドと呼ばれるものは、
「もしも、こうだったら、どうなっていたか>:
という、歴史に対しての挑戦的な発想の一つである。
歴史を勉強していると、
「歴史にもしもというのはないが、もしも、あの時、あの要人が暗殺されなかったら?」
という発想は、時代の分岐点になったとされる事件には、必ずと言っていいほど、存在している。
特に、暗殺などで、犯人が分からない時、
「犯人○○説」
と言って、いくつもの説が考えられるが、犯人が分かっている場合であっても、
「犯人黒幕説」
ということで、実際の実行犯以外に、どこかに黒幕がいるはずだと考えられる。
そもそも、それだけの大それた犯行を行うのは、いわゆる、クーデターによるものだろうから、実行犯が一人で行うことは考えにくい。
首謀者がいて、その人間が、同志を集めたり、あるいは、金で動く人間を雇ってきたりして、自分は表に出ないことが多いだろう。
出てくるとしても、まずはクーデターが成立してから、体制がある程度決してきてからでなければ、自分が表に出たところで、どこまで世間に認められるかという問題がある。
クーデターなどは、まわりから支持されなければ、ただの内紛のように見られてしまい、世間は決して、クーデターを起こした人間を許さないだろう。
特に日本人の場合は、
「判官びいき」
というものがある。
つまりは、弱い者に味方をするという精神が、歴史的にあって、クーデターを起こした人間たちに正当性があれば、全力で守ろうとするだろうが、勝手な思い込みでの暗殺は、ただの人殺しとしてしか見てくれない。
むしろ、殺された方を気の毒に思うからである。
この判官びいきというのは、元は、
「源義経」
が元祖である。
平家の滅亡という偉業を成し遂げた義経だったが、武家政治の確立を試みる兄の頼朝の反感を買った。
その理由は、朝廷の首領である後白河法皇から、
「頼朝の許可を得ずに、勝手に官位をもらった」
ということであった。
そのことは、最初から、頼朝に、
「勝手に官位を授かってはいけない」
と言われていたのに授かったのだ。
頼朝は、清盛や公家を見ていて、後白河法皇の策士としての手腕を恐れていて、利用されないようにしようと思っていたのに、義経としては、
「兄の命令とはいえ、直接、法皇がくれるという官位を断るというのは失礼であり、自分が官位を得ることは、鎌倉としても嬉しいことだろうから、後になれば、兄も許してくれるだろう」
という甘い考えがあったのだ。
そんな兄弟の考えの行き違いが、次第にお互いの意地、さらに鎌倉武士としての頼朝と、京都の朝廷のそばにいることで、朝廷こそが、世の中心だと思っている義経のあいだに、決定的な亀裂をもたらしたのだろう。
そのせいで、義経は逃亡を余儀なくされ、奥州藤原氏に身を寄せていたところを、裏切りにあって、殺されてしまった。
しかも、その藤原氏も、
「義経をかばった」
として、滅ぼされたのだ。
元々は、鎌倉に遠慮して裏切りまでして、保身に走ったのに、頼朝は、この時とばかりに奥州も平定し、全国支配という偉業を成し遂げたのだった。
義経の話も一つの大きな歴史の分岐点であろうが、この場合は、首謀者も黒幕も分かっているので、ここでいう、
「もしも」
という意味での、パラレルワールドとしては、あまり成立しない話になるであろう。
歴史的に大きい事件としては、
「大化の改新(乙巳の変)」
「平家滅亡」
「信長暗殺」
そして、
「坂本龍馬の暗殺」
になるであろう。
この四つには、共通点が多い。前述の犯人が分からない場合か、分かっていても黒幕が誰か? という点。
そしてもう一つは、
「彼らが殺されたことで、歴史が百年、逆行したのではないか?」
と言われていることである。
乙巳の変における、蘇我入鹿の殺害は、朝鮮と対等な関係でいた日本を、百済一辺倒にしてしまったことで、新羅、高句麗に責められ、白村江の戦いにおいて敗れたことで、都を何度も移さなければいけなくなるという意味での後退。
平家の滅亡は、福原の港を開拓し、海から中国大陸(宋)との貿易を推し進めていた平家の政策を、源氏の武士による封建制度の確立によって、世界の流れに逆行してしまったこと。
信長に関しては、その先験的な目を、光秀が暗殺してしまったことで、一人の改革者を葬ったということ。
竜馬に関しても同じであるが、ただ、竜馬の場合は、考え方が受け継がれていったことで、明治維新が曲がりなりにも成功したといえるのではないだろうか。
ただ、竜馬の夢見た維新と、本当に同じだったのかということは疑問が残ることではある。
そんな時代にも、それぞれに、
「もしも」
が存在する。
これ以外にも、
「関ヶ原で、裏切りがなく、西軍が勝っていたら?」
あるいは、細かい戦の中でも、
「石橋山の合戦において、穴倉に隠れている頼朝を、梶原景時が助けなければどうなっていたか?」
などがあるだろう、
そういう意味では、頼朝を殺さずに伊豆に流してしまった清盛が、最後の最後まで悔しがっていたということもある。
敗北した方を、その一族もろとも、相手の根絶やしにするという考えも、この時からきたものだ。
自分の孫婿であった豊臣秀頼を滅ぼした家康も、頭の中に、そのことがちらついていたに違いない。
歴史というのは、本当に、
「もしも、あの時……」
と考えてはいけないのだろうが、それを教訓に勉強するというのは大切なことである。
もっと言えばいろいろある。
「大東亜戦争の時の真珠湾攻撃、ミッドウェイなどの戦略であったり、本来であれば、最初に相手の出鼻をくじいて、その余勢をかって、いい条件での講和に持ち込むはずが、勝ちすぎたために、戦争をやめるきっかけを逸してしまった」
などというのも、
「もしも……」
があったとすれば、今の時代にどのように響いているか分からないだろう。
「ひょっとすると、日本は、どこかの国の植民地になり、下手をすると、アメリカの国土の一部になっていたかも知れない」
ともいえるのではないか。
歴史に対してのそのような、パラレルワールド的な話は、歴史小説などに書かれている。
ちなみに歴史小説と時代小説の違いを分かっているであろうか?
時代小説というのは、時代劇のような、まったく架空の話で、フィクションとして描いた現代小説の時代版とでもいうべきであろうが、歴史小説というのは、基本的な史実に基づいていて、登場人物は実在の人物であったりするが、ここでいう、
「もしも歴史が変わっていたら」
という観点から、
「歴史シュミレーション」
という形で、書かれているものである。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次