広義の意味による研究
というような、作者の考えが入っているから、かなり砕けた感じの話になっていて、こうやって、人に説明できるくらいのものだったのだ。
それでも、話が著者である心理学の先生の真骨頂ともいえる、難しい話に入ってくると、今度は、なるべく砕けて話そうとすると、理解できるまでいかに砕けさせるかというところが難しい。
つまり、説明できるだけの内容のものを、いかに理解できるだけ砕けさせるかということになると、その間にどうしても、そのどちらにも妥協が必要で、いかに説明できるだけの話にしようとも、どこかで妥協しないと、こちらの意見をすべて、説明しきれないと思っていることだろう。
逆に、理解できるだけ砕けさせてしまうと、説明が行き届かないので、いかに分かりやすい妥協をしないといけないかという線引きが難しいのだ。
そうなってくると、きっと書いている先生の方で、ジレンマが出てきて、そのジレンマに耐えながら書いているというのも、同じようにきついに違いない。
ところどころで、その思いが垣間見えるような気がした。
先生の怒りを感じさせるフレーズが見え隠れしていて、その話の先にあるものが次第にぼやけてきたのか、それとも、先生なりに書いていて、どこか感覚がマヒしてきたのか、さすがに次第に文章が難しくなってくるようだった。
怒りが、文章を難しくしているのか、文章が難しいから、怒りがこみあげているように見えるのか、そのことを考えていたが、やはりそれは、自分の中で妥協を見つけようという葛藤が、そのように見せているのかも知れない。
そう考えて読んでいると、何がいいたいのかということは、おぼろげに分かってきたような気がした。
本当は、先生のいいたいのは、ここではないのだ。最初の章といい、二つ目のこの章といい、三つ目の章に出してくる、独自の発想への、いわゆる、
「前奏曲」
でしかないのだろう。
そのことを分かっていると、この章でどんなに難しいことを書いていても、あくまでもそれが前奏曲の一部でしかないと思いと、難しい部分が重要ではないのだということが分かる。
ただ、ここで少し理解しておくと、その後の最後の章でも、出てくるであろう難解な内容に、少しでも馴染めるかも知れない。
この章の難解な専門的な話は、そう思って読んでいると、何となくではあるが、それこそ、
「次章を読んでいると、知らず知らずに思い出されるものなのではないか」
と感じるのだった。
しかも、キーワードの、
「感じる」
ということを思わせるので、繋がりとしても、偶然ではあるが、考えられるものなのだろうと思うと、そのことに気づいた自分には、
「この本を理解することができるかも知れない」
とも感じたのだった。
第三章を、
「いよいよ、この本のクライマックスだ」
と思って読み進んでいくと、次第に自分が本に吸い込まれていくような気がしてくるのだった。
ただ、それはまったく想像していなかったことではなく、その内容も、
「何となく、こう来るのではないか?」
と思っていたことから、余計に、
「想定内の内容」
と考えるようになったのだった。
次の第三章の内容としては、
「感と勘が、それぞれ入れ子になっている」
というような、一番難解なキーワードになっていた。
しかし、この理論は、前述の二つのキーワードからであれば、想像できないことではない。
つまり、まるでマトリョシカ人形のように、
「感の中に勘があり、その勘を開けると、その中にまた、感があった」
というのを繰り返していっているかのような感覚である。
ただ、マトリョシカと違うのは、人形の中から人形というように、同じものがどんどん出てくるというものではない。そこが一番の違いなのだ。
そして、もう一つ言えることとして、
「何かの中に何かがあるという考え方は、左右に鏡を置いて、その真ん中に自分がいる場合と同じようで、その片方を見るとどう見えるか。そこには、無限に続いている自分が見えているだろう」
というのは、この発想の根源のようなものであった。
その時に重要だといえるのは、マトリョシカのようなハッキリとして見えているものには、その限りではないが、
「どんなに小さくなっていったとしても、ゼロになるということはない」
ということであった。
つまりは、無になるということはないということであり、これが一番言いたいことなのかも知れない。
ゼロという数字は実に神秘的な数字である。
もちろん、無限というのも神秘的であるが、ゼロという数字は、数学において、
「許されない計算を行うことのできる数字」
になるのだ。
例えば、元がどんな数字であっても、
「ゼロで割る」
ということは、数学的に許されないものということになっている。
「セロ除算」
とも言われていて、
「ゼロで割るということは数学的な理論では考えられないことなので、許されないことだ」
と言われている。
逆に、答えとなるものに、ゼロを掛けると、最初の元になった数になるというのが、数学的な考えである。
しかし、ゼロという数字は、何を掛けても、答えはゼロにしかならない。つまりは、最初から元になる数字は、ゼロでなければいけないということになるが、そうなると、答えも決まってくるのだ。
数学で、
「同じものから同じものを割ると、一になる」
というのが、言われている計算方法ではないか。
それを考えると、そもそも、どこを切っても説明のできないものであり、それゆえに、
「許されない」
ということになるのだろう。
そういう意味で、先生の考え方としては、
「無限という考えは大いにありなのだが、この、感と勘の関係という中において、ゼロという考え方は出てきてはいけないもの」
という意味で考え始めた発想が、この入れ子という発想だという。
元々は、
「負のスパイラル」
というところから思いついたものだという。
螺旋階段が、二つ、それぞれに交わらないように重なって繋がっている。まるで、DNA細胞を見ているようにも思えるが、まるで、
「曲線における、交わることのない平行線を描いているようではないか」
ということになるのだ。
この発想が、
「感と勘が、それぞれ入れ子になっている」
ということであり、作者の心理学の先生が一番言いたかったことである。
先生は最後の章のこの説を押しているようで、そういう意味で、前の章が、その前奏曲だということになるのだろう。
ある意味、本当はこの説が一番難しいはずなのだが、前節で、少しカオスな内容になっていたことで、何となくも分かる気がした。特に、螺旋階段のくだりと、DNA細胞というたとえ、さらに、両面に置かれた鏡という意識が、かなり分かりやすかった。それを思うと、この本を読みたかったというのも、この本を見つけたという偶然も、この本の中にある、
「勘」
の中の、いわゆる、
「第六感」
に結びついてくるのだろうと思うのだった。
夢と現実の挟間
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次