広義の意味による研究
いろいろ妄想していると、今回のベストセラーなる本は、昔から言われていたことではないかと言える気がする。
確かに、昔見た映画の中には、どこかの政府の手先のような連中が、ジュネーブの細菌研究センターに忍びこんで、情報を盗み出そうとしたのを、警備員に見つかって、研究室で、銃撃戦になったことで、細菌の入った瓶が割れてしまい。病原菌をもろに浴びてしまった状態で、逃走したというところから始まっていた。
彼らは列車に潜り込み、その列車の中で発病し、たまたま乗り合わせて医者が、病原菌の患者を助けていくというような話であった。
この話で何が怖かったかと言って、最後に(曲がりなりではあったが)解決したところを出ようとした司令官の後ろから、つけている別の国家公安のスパイがいたのを見た時は、ゾットしたものだった。
あの作品は、まだ昭和五十年代の作品だったと思う。あれから、四十五年が経っているというのに、世界は似たようなことをしているのだ。
要するに、昔の映画も、今回の、訳の分からない伝染病の流行も、
「人災だ」
ということでしかないからだ。
さすがにその作品の原作本はベストセラーではなかったが、翻訳本を読んでみたいと思ったほどだった。
映画にしても、今回の伝染病にしても、政府が絡んだ研究が問題になっているのだろう。それを明らかにしたくないから、この本をベストセラーにしたくないという考えは邪推だろうか。
とにかく、古すぎるというのもあるのだろうが、他にももっとたくさん、似たような作品はあるだろう、これこそ、世の中は、
「一体どうなっているんだ」
と叫びたいほどではないだろうか。
話は戻るが、この本の最初の章については、前述のとおりなのだが、ここからが、実に難しい解釈になる。
最初の解釈とすれば、
「勘というものが、感の中に含まれる」
というものであったが、次の章ではまったく逆の発想であった。
つまりは、
「感というものが、勘の中に含まれる」
という考えであった。
前述の法則のように、今度は、勘を広義の意味で考えようとするのだが、なかなかうまく発想できない。
できたとしても、ヤマカンのようなものや霊感のようなもの、いわゆる、
「でっちあげ」
であったり、
「占い」
の類を、一つの勘というのであろう。
そこに第六感という発想が入ってきて、
「第六感が、すべての勘を網羅している」
という発想だったとすれば、
「感というmおのが、勘の中に含まれる」
という考えも成り立たないとは言えないだろう。
そんなことを考えていると、第六感というものが、どこからきているのかということを考える必要がある。
本当に人間は感じている、五感以外の感覚であるとすると、確かに、
「あてずっぽう」
であったり、
「占い」
などの類に近いものがあるに違いない。
しかし、いくら第六感が曖昧だとしても、それは人間が直接感じている、感覚以外にも、間接的に感じるものもあるのではないだろうか。
いろいろ考えてみると、なかなか思いつかない。あり得るとすれば、超能力の範疇とされるところの、
「予知能力」
のようなものかも知れない。
超能力というのは、頭の中で使われていない部分であり、実際には誰にでもあるというものなので、どう解釈するかということが問題になるのだった。
そんな超能力の一種のように思える予知能力も、そういう意味では、誰にでもあるものだが、それを表に出せないのは、
「自分自身に、能力があるということを信じていないからだ」
と、本には書いていた。
予知能力などは、実際に自分で予見できるものも中にはあるかも知れない。状況判断だけで、実際に分かることだってあるだろう。
それを予知能力として、まるで超能力のように感じるのが、ある意味おかしいのではないか。そう思うと、
「超能力なのだから」
と言って、信じないというのも滑稽な話である。
ただ、そうなると、この場合の、
「予見」
というのは、第六感というものとも違っているようで、それだけに、勘というものの範囲を簡単に広げるというのも難しいだろう。
それなのに、この本を書いた心理学の先生は敢えて、
「感というものが、勘の中に含まれる」
と書いているのには、何か他に理由があるのではないか。
そう思って、先を読み込んでいくと、どうやら、今回の考え方は、前章までの考え方と若干違っているかのようだった。
確かに、第六感というものが、
「広義の意味での勘」
という意識を持っているところまでは、間違いないようなのだが、
「勘というのは、あくまでも感じることであって、超能力とは違うのだ」
という。
超能力というのは、感覚というよりも、元々潜在しているもので、それが無意識に出てくるものではないかというのだ。
テレビドラマやマンガなどでは、超能力というと、それを持っている人が、自分の意志で動かしているように描かれているが、実際の超能力というのはそうではなく、自分の意思に関係なく、勝手に行っていることだという。
だから、自分には超能力を制御する力がない。誰にでも備わっている超能力を信じようとしない意識には、無意識に、
「超能力が表に出てしまっては、自分で制御することができないので、出てきてもらっては困る」
という感覚があるからだった。
そういう意味では、超能力と呼ばれるものを潜在的に抑えているこの力も、一種の超能力だといえるのではないだろうか。
自分の中で、抑えようとするこの力こそが、一種の第六感なのではないのだろうか。
一種の、
「でっちあげ」
や、
「占い」
などというものとは程遠いもののように感じられるが、冷静になって考えてたどり着いた考えなので、それを、第六感と言わずとも、
「勘」
とは言えるのかも知れない。
広義の意味ということでの、「勘」という発想ではなかったが、結果として辿り着いたのだ。
そうなってくると、抑えようとしている超能力を実際に抑えている力が、勘だと考えると、
「抑えようとしている力というのが、一種類だけなのだろうか?」
と感じるのだ、
超能力一つ一つに別々の抑止力のようなものが存在しているのだとすれば、超能力の数だけ、勘と言える力も存在していると考えると、感というものに対して、対抗するだけの数を持っているのかも知れない。
「感というものが、勘の中に含まれる」
という言葉もまんざらでもないといえるのではないかと考えると、心理学の先生が何をいいたいのか、はっきりとは分からないが、その発想が新たな発想を生むといえるのではないだろうか。
そんな中で、次第に話が理解困難になっていった。難解な言葉が飛び交うようになり、その中で、次第に、
「専門書を読んでいるようだ」
という感覚に襲われていったのだ。
考えてみれば、そこまでが結構優しい表現をしていたので、
「専門書にあらず」
と思っていたが、心理学、感覚について、などというキーワードだけでも、十分に専門性が入っているではないか、
しかし、そんな話を、
「いかに難しくしないようにしなければならない」
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次