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広義の意味による研究

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 そもそも第六感というのが、曖昧なものなのだから、第六感の中に、このヤマカンを含めてもいいのではないかという考えも生まれてくる。
 そうなると、
「勘は、感に含まれる」
 という説にはかなりの説得力があるような気がする。
 この章では、次の起承転結の二番目に当たる、「承」の部分にまで入り込んでいるようで、まあ、当然のごとく、一番語るには必要な分量だといっても過言ではないだろう。
 含まれる方の、
「勘」の方だが、これも実に偶然なのか、それとも、名前の付けたかの方が偶然だったのか、
 山本勘助の、
「ヤマカン」
 は、カタカナで書かれることが多いが、それは、他の言葉と同じように、
「感」
 という言葉ではないからであろう。
 現在言われている、ヤマカンという言葉も、結構曖昧な意味で考えられていることが多いのか、現代の使用例としては、
「あてずっぽう」
 という表現の代名詞のような使われ方が多い。
 どちらにするか迷っているが、どちらにしても、それほど、自分に被害も影響も差がないので、
「勘」
 というものに頼って、あてずっぽうで決めるという考え方と、
 逆に、どちらを選ぶかということが、大きな影響を与えるにも関わらず、その根拠にまったくの信憑性がなかったり、どちらを選ぶかということにおいて、迷いしかない場合、その選択を、
「神に委ねる」
 という感覚での、開き直ウィからの、
「あてずっぽう」
 として、選ぶという意味での、ヤマカンというものでもある。
 これが、当時としては、祈祷師による占いなどによって決めることもあるだろう。
 特に、戦国時代の軍師というのは、占星術や占いなどに長けている人もいた。
 中には、角隈石宋という軍師がいたのだが、彼は、九州豊後の国の戦国武将である大友宗麟に仕えた武将であり、大友家の軍師的存在でもあった。
 そもそも、彼は兵法、神仏についての知識、気象学、天文学、疫学などの知識に長けており、軍師としての役割を十分にできるだけの才覚を備えていたのである。
 しかし、大友家が薩摩の島津との闘いが勃発した際、石宋の助言を無視して、無理やり戦に臨んだことで、彼は詩を決意して戦に臨み、結果、やはりというか、大友家が敗北し、彼もそこで戦士してしまったのである。
 もっとも、余談であるが、大友宗麟は、キリシタン大名としても、有名で、日向に、
「キリシタン王国」
 の建設を目指していたという。
 冷静に考えれば、この王国にはどこか矛盾があるのではないか?
 なぜなら、
「キリスト教は、そのような王国というのを認めているのか?」
 というのも違和感を感じる。
 確かにキリスト教は、差別的なものを認めていないように思えるが、実際には分からない。
 ただ、大友宗麟という武将は、きっと自分がそこの国王として君臨しようという意識があったのだろう。とにかく、どこでもいいから、自分が王になりたかったという意思を持っていたということになるのだろうか。
 そもそも、大友宗麟という人がどういう戦国武将であったのかということは現時点の作者には、不勉強であったが、角隈石宋という人物には大いに興味があるので、それを含めたところで勉強してみたいと思うのだった。
 そういう意味で、同じ軍師としての顔を持つ山本勘助の名前をいただいた、
「ヤマカン」
 という言葉も、もっと深い意味があるのではないかという興味を持って、さらに勉強してみたいものである。
 そんなことを考えていると、確かに、
「勘」
 という言葉も、少なくはあるが、広義の意味で考えると、もう少し広がりや可能性がありそうな気がするが、
「感」
 というものほど、ハッキリと広がっている考えはないといえるのではないだろうか。
 確かに、
「○○感」
 というものは、前述だけではなく、他にもありそうだが、ピンと来るものだけを瞬時に羅列しただけで、前述だけの言葉が出てきたのだ。それを思うと、本当はもっとたくさんあるのかも知れないが、考えただけでこれだけあるのだから、まだまだ隠れている言葉がたくさんあるはずだ。
 この本も、感という言葉をいくつか並べていたが、さすがにここまでたくさんの言葉を並べたわけではない。
「要するに、分類できればいいのだ」
 というだけのことである。
 その本において、最初の章としての話としては、一番理解しやすいところから入った。
 そして、それが一番しっくりくる発想で、誰もが納得できるような、鉄壁に近い内容の説なのに、それをわざわざ本にするということは、それだけしっかりと書くことで、後半の話にボリュームを持たせるための伏線ではないかと思っていた。
 実際には、それは一つの考えであったが、これだけでなく、もっと深い考えがあることを誰が分かるというのだろう。
 あすみの方も、そこまで考えて最初は読んでいたわけではない。
 論文に近いような本だということで、かしこまった気持ちになって、精神的に固まった気持ちで読んでいたが、そこまで神経質になる必要はなさそうだ。
 そもそも、あすみの中には、理論的に考えるということができているようで、小説を読んでいるよりも、よほど集中して読める。
 他の人であれば、
「真面目に読んでいると、頭が痛くなる」
 というほどの考えになるのではないだろうか。
「物語のように、流れるような展開になっていない」
 というのが理由であるが、逆にあすみの方では、
「難しい本なだけに、分かってもらおうとして、段階を踏んで書いているだろうし、なるべく時系列も、順序通りにして、難解にしないようにしなければいけないと思っているのではないかと感じていた。
 今まで大学の講義でのテキストを読んできたが、そんなに簡単に読めるものではないだろう。
 これが簡単に読めるくらいであれば、
「自分だって、学者になれる」
 とまで思うかも知れない。
 あくまでも、飛躍した考えであるということは分かっているが、それにしても、ここまでの飛躍は、他の人にはできないだろう。
 もしできていたとすれば、
「自分だって、学者になれるかも知れない」
 と思うと、
「もう少し勉強を頑張ろう」
 という、ことを思う人も出てくるだろう。
 しかし、これは実に安直な考えであり、子供のような単純さだといってもいいのではないだろうか。
 だが、ことを考えながら本が読めるのも、最初の段階だけのことであり、途中から話が変わっていくうちに、次第に、
「自分が何を考えているのかということさえ分からなくなってきた」
 というところくらいまでに、考えが至ってしまっているのである。
「最初の方のページで、理論的な説明ができているから、専門家の人であれば、後半の難しい話も理解できるのかも知れないな」
 とあすみは思った。
 しかし、考えてみれば、これは別に専門書というわけではなく、どちらかというと心理学にとっての、
「入門書」
 という感じの本であり、
「今週のベストセラー」
 というコーナーに置かれているのだから、まさにその通りなのだろう。
「何も学者でなくとも、興味があれば面白い」
 というような帯がついている。
 この言葉に興味を持って本を買う人も少なくはないだろう、
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次