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広義の意味による研究

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 彼氏になりそうな人であれば、その感覚は違ってくるのだろうが、今のところ、そのような気配は感じられない。少なくとも、イメージとして、彼氏として認められる雰囲気ではないので、もし、相手が必要以上に、こちらを彼女として見てくるようになれば、その時から、気持ち悪く感じてしまい、きっとその時点で、二人の関係は冷めてしまって、継続は無理だと考えたのだ。
 だが、幸か不幸か、自分から彼氏になりたいというような接近をしてくるようなことはなかった。
 彼はそれでも、積極的に近づいてくるところがあったのは、きっと、
「友達だという認識が強いからだ」
 と思っていたが、それだけではないようだった。
 どちらかというと、彼は友達が実際には少なかった、きっとあすみに対してのような接し方をまわりの人にしていることで、
「面倒臭い」
 と思われていて、自分がまわりに感じている友達意識ほど、まわりは彼のことを冷めた目でしか見ていないということではないかと思うのだった。
 あすみは、それを感じていたので、むげに突き放すようなことはできないと思うのだった。
 たぶん、他の人のように突き放しても別に問題はなかったのだろうが、彼を見ていると、ただ単に、
「寂しさから、話し相手がほしい」
 と思っているだけのように感じた。
 最初は、自分から話しかけるのも、かなり強引なところがあると感じていたが、それは彼の中にある本当の寂しさのようなものを感じてあげられなかったからではないかと思うのだった。
 この時に感じる相手の気持ちの中の本質に、
「寂しさというものが含まれているかどうか?」
 ということが重要ではないかと思ったのだ。
 この寂しさを分かるか分からないかで、相手を見る目が変わってくる。
 つまり、自分を心理的に相手が動かすには、相手の本質を見る必要があるのではないだろうかということをこの時に学んだというのを感じたのだ。
 もし、その意識を他の時に感じていたとすれば、自分が彼から、この感覚の影響を受けたということを、時間が経つにつれて忘れていったに違いない。
 しかし、それを忘れずに覚えていたというのは、
「二人が知り合うきっかけになったのが、心理学の講義だった」
 というのが大きかったのではないだろうか。
 それまでは、心理学というと、
「一般教養として、取らなければいけない単位の一つでしかない」
 と思っていた。
 彼から毎回のように挨拶をしてもらい、友達と意識されるようになるまでは、本当に心理学の授業をそれだけのものだと思っていたが、彼を意識し始め、面倒くさいかも知れないと思いながらも意識していると、心理学の授業も真面目に聞くようになり、それまでの自分、そして今の自分、そして、彼と接している自分についても、考えるようになっていた。
 結構心理学の講義も結構面白いもので、さすがに言葉が難しすぎるので、専門的にやれと言われると、かなり微妙な気がしていたが、一般教養で習う程度の講義くらいは、理解できると思っていたが、それもきっと、自分が理解しやすいようにと、切り取って考えるようになったからなのかも知れない。
 そもそも難しい学問を切り取って考えられるようになるのだから、それだけ講義も真面目に聞いているという証拠であり、理解できるところだけでも、理解できるという自信にもなったのだった。
 そんな中で心理学というものに、いろいろな種類のものがあり、考え方もいろいろだと思った。細かいことは別にして。あすみは、心理学というものを。
「総論の授業ではあるが、それをさらに総論として理解できる部分だけを切り取って、うまくつなぎ合わせれば、自分独自の解釈としての、心理学ができあがるような気がしてくる」
 と思うのだった。
 そんな心理学をいかに勉強するのかということは、それ以上は考えなかった。だが、徐々に忘れていく中で、きっと肝心なことだけは頭の中にあったのだろう。
 そのことを思い出させたのが、その時から十年以上も経ってから本屋で偶然手に取ってみることになった、
「感と勘の違い」
 という本であり、タイトルから、
「これは心理学関係の本に違いない」
 とすぐに分かった気がした。
 何かがピンときたのだろう。
 その本に書かれている、起承転結で言えば、最初の章にあたる「起」の部分では、
「勘というのが、感の中に含まれる」
 という書き方をしていたのだ。
 これは、本人も最初に指摘しているように、一番分かりやすいものであり、その言葉を聞いただけで、何となく理解できる気がした。
 この場合は、感というものを、まず、どう考えるかというものであり、
「含む方を、広義という意味で考え、含まれる方を、狭義という意味で考える」
 という発想から考えるのが、無難なのではないかと思うのだった。
 感という字は、
「感じる」
 ということを意識して考えると、まずは、
「感という字を用いたものを考えてみる」
 という考え方があるだろう。
 一番考えられるのは、五感である、いわゆる、
「味覚、視覚、聴覚……」
 などというものが、まず考えられる。
 もっとも、これらは、このお話のそもそもが、ここから始まったので、思いつくものの最初がこれでなければ、そもそもおかしいというであろう。
 それ以外には、音感、触感、体感、などのような、身体に直接感じるもの、つまりは、五感に近いものと言えるものがある。
 また、好感、実感、痛感、反感、違和感などのように、気持ちが左右するもので、いわゆる、
「感情」
 と呼ばれるものも、感という文字が含まれるものである。
 また、他には、共感、情感などのように、感情に近いが、それだけではなく、
「情」
 という思いが含まれたものもある。
 さらには、「敏感」、「鈍感」、「性感」などというような、身体に直接感じるものが、自分にとってどのような影響を及ぼすものなのかということを考えらせられるような言葉もある。
 さらに、先ほどの、五感とは違った、言葉では言い表せないようなものにある第六感などのようなものだけではなく、前述の霊感などという、
「超科学的」
 とでもいうのか、科学では鶏鳴できないような、
「感」
 も存在している。
 また、これはたまたまなのか、
「勘」
 という言葉のものも存在する。
 これも、どちらかというと、第六感や霊感などのように、言葉では言い表せない種類のもので、
「超科学的なもの」
 と言えるのではないだろうか。
 ただ、それを信じていない人から言わせれば、
「非科学的なもの」
 と言われてしまい、超自然現象的なことすら、否定する考え方である。
「幽霊や妖怪などというものは迷信であり、科学で証明されないものは、この世には存在しない」
 という、一種の、
「科学至上主義」
 とでもいうべきか、それとも、
「科学万能主義」
 とでもいうべきか、それらの人を見て、単純に、
「頭が固い」
 と言ってしまっていいのだろうか?
 実に難しいところである。
 ただ、そうなると、実際には含まれないであろう、
「ヤマカン」
 というものも、広義の意味という理屈で考えると、含めてもいいような気がする。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次