広義の意味による研究
一度読み直してみると、それまではほとんど、読破したはずの本を再度開いてみることはなかったのに、一度解禁されてみると、今までの感覚がウソだったかのように、小説であっても、
「もう一度読み直してみよう」
と感じるようになっていた。
その根源となった発想が、この。
「感と勘の違い」
という本であり、そのうちにあすみのバイブルのような本になっていったのだった。
本の内容について
本の概要は、前述のように、
「起承転結」
のような形になっていると記したが、実際にどういうものかということを、ここから記していくことにしよう。
ただ、本の構成として、
「起承転結」
という表現をしたが、それはあくまでも、
「小説のような物語のように表すれば」
というだけのことで、本当に、
「起承転結」
として成り立っているわけではない。
小説でも、起承転結形式の書き方をしていても、完全に起承転結になっているとはいいがたいものもだるだろう。つまり、起承転結は小説の必須ではないということだ。
起承転結の形をプロットとして作成しても、書いていくうちに形式が変わってきて、例えば、四つのうちの二つが一緒になってしまったりすることもあるだろう。
例えば、転と結が一緒になり、
「起承結」
であるかのように見えるものもあるかも知れない。
それはそれで小説としては成立していると思う。例えば、ホームドラマのような小説で、別に何か事件のようなものが起こらずに最後まで平穏な話のものがあったとしても、それはそれでおかしくないと思うのは、あすみだけだろうか?
ただ、今まで読んできた小説は、そのほとんどに、
「起承転結」
が存在していたと思う。
だが、それはあくまでも、小説というものが、
「起承転結」
の名のもとに成立しているという、固定概念に囚われているからではないかという気持ちになっているからで、後から考えてみると、本当に起承転結ばかりの小説だけだったのかと聞かれると、疑問に思うものもなくはなかった。
具体的にどれが、どうだったのかというのは、あすみの中の妄想の世界であり、そんな妄想をするのが嫌いではなかったあすみにとって、そんな時間は基調にも感じられた。
あすみは、読書をする時、作者のように
「焦りから、小説を読むたびに、何か気が散ってしまい、集中できないことから、斜め読みになってしまう」
ということはなかった。
もっとも、そんな斜め読みをする人がそんなにたくさんいるとは思えないのだが、それはあくまでも作者の個人の見解であり、
「ひょっとすると、読書が嫌いだと思っている人の中には、作者と同じように、集中できずに、斜め読みになることで、まともな読書ができない」
という人もいるのかも知れない。
作者の場合は。
「小説を書けるようになりたい」
という意識があったから、斜め読みになっても、それを克服したいという意識を持ったのだが、それ以外の人は、
「別に読書ができなくたって、死ぬようなことはない」
と極端ではあるが、これと似たような考えを持っている人も少なくないのではないかと思うのであった。
この本を書いた心理学の先生というのも、実は女性で、そのあたりも、あすみの興味を引いたのだ。
「もし、この本を書いたのが、男性だったら、タイトルに興味をひかれたとはいえ、読んでみようと思っただろうか?」
と感じた。
確かにタイトルには興味をそそられたが、何となく心理学という言葉に、違和感があったあすみは、すぐには本を読もうとは思わなかっただろう。
そもそも、心理学という言葉に違和感を持ったのは、あすみが大学生の頃で、一般教養の中にあった心理学の講義を取っていた時のことだった。
大学の、しかも一般教養の講義なのだから、概ね、総論的なことが多いだろう、
実際の心理学の専門分野の講義になると、各論的なことが多くなり、もっともっと、難しい話に入ってくるのではないかと思った。
あすみは、この一般教養の心理学の講義で、一人友達になった人がいたが、その人は男性であり、どちらかというと、控えめなところのあったあすみに対し、ぐいぐいくるタイプの男性で、普通なら、
「鬱陶しい」
と思うか、
「面倒臭い」
と思うかのどちらかだったのだろうが、それはきっと、ナンパ目的に見えるからではないかと自分で思っていた。
大学生の男子学生としては、その方が健全なのだろうというのは頭では分かっていたのだが、実際には、あまり近づきたくない人種であり、
「存在は認めるが、関わりたくない」
という感覚であった。
あすみは、自分がかかわりたくないと思っている人たちが結構いる。しかし、それらの人たちを否定してしまうと、その団体社会そのものが成り立たなくなってしまうということが分かっているので、そのすべてを否定するということはできないと考えていた。
「それらの中のどれを否定して、どれを肯定すればいいのか?」
などということを考えていると、結論は出てこないように思うので、
「基本的には、そのすべてを認めて、その中で、あくまでも自分の中に受け入れるか受け入れられないかを判断するしかない」
と思っていたのだった。
その男子大学生は、最初こそ、
「受け入れてもいいかも知れない人なのかも知れないわ」
と思い、普通に接してきた。
学部が違っているので、それほど大学で出会うことはないはずだったのだが、思ったよりも、一般教養の授業がかぶっているようで、そのことをその男子大学生がいたく感動して、
「これはまるで運命のようではないか?」
と言って喜んでいた。
偶然には違いないとは思ったが、何を根拠に、運命だというのか、ちょっと、その発想が怖い気がした。
それよりも、その発想を疑問には感じず、あすなにも、同じ気持ちを押し付けてくるようで、それが恐ろしかったのだ。
あすなにとっては、
「ただの同級生」
というだけで、別に友達でも何でもないと思っていたのに、彼の中では勝手に友達にカウントされていたのだ。
だが、自分の友達の中にも、学校でただ挨拶をするだけの相手も友達の一人にカウントする人もいた。実際に同じ学部で、同じクラスで、必要以上なことを話したことはなく、会話というものが成立したことのない人でも、
「相手が自分を友達として認識しているのであれば」
という発想から、あすなもその人のことを友達だと思うようにしていた。
何が違うのかというと、
「学部が違うから」
というのがほとんどではないだろうか。
同じ学部の相手も男子生徒だし、
「男子だから」
というのは理由にならない。
そうなると、学部が違うという理由で考えると、実際上、自分との距離を勝手に考えるからであろうか。
それほど親しいわけでもなく、学部も違うということで、同じ学部であれば、学年が進むにつれて、かかわりが深まってくることも考えられるが、学部が違っていて、どこまでかかわりがあるかというと、平行線よりも近づいてくることがないように思えたからだ。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次