広義の意味による研究
小説を書けないと思っている人は、妄想と想像の違いをまともに考えたことはなく、ただ、
「想像は、いいことであり、妄想は悪いことだ」
と、同じことであっても、言葉を変えることで、いいことと悪いことの解釈が変わるのではないかということを決して考えることはしないのだろうと思うのだった。
それは、小説であっても、小説以外の文章であっても同じなのではないかと思う。何もないところから文章を生み出すというのは、フィクションであっても、ノンフィクションであっても同じである。作者の場合は、同じだということは理屈としては分かるが、
「どうしても、ノンフィクションを小説という括りに入れることを許せない」
と考えている人も少なくはないと思うのだった。
「事実は小説よりも奇なり」
と言われるが、まさにその通り、ノンフィクションの方が、小説よりも奇妙な話だったりすることも多いだろう、
しかし、ノンフィクションはあくまでもノンフィクションであり、文章にしてしまうと、どうしても、フィクションにはかなわないと思うのだ。
だから、逆にフィクションというのは、頭の中で考えていることが妄想でなければいけないほど、奇抜でないといけないと考えるのだ。何しろ小説よりも奇妙な話をのフィクションとして書いたとしても、それは、絶対にフィクションにはかなわないと思うからだった。
そんな考えで小説を書いていると、最初、小説をどうしても最後まで書き切れなかったというのも分かった気がした。
それだけ、最後まで書き切るためには、書き始めから、ラストをおぼろげながらに思い浮かべていないとできないことだ。
そのためには、最低限プロットが必要である。そのプロットが書けないのだから、最後まで書くなどありえないだろう。どんな書き方をしても、最後はまともには終わらない。
「永遠にループしたまま書き続けることになるんじゃないか?」
と、まるで、負のスパイラルを描いているような気がするのだ。
双六で、最後はピタリの数字でないと上がれないという。あの感覚に近いものがある。つまりは、最後に行けばいくほど難しい。
帳簿をつけるのでも、最後になればなるほど難しい。最後、数字が合わなければ、最初から一個ずつ見ていかなければいけないという感覚に近いのではないだろうか。数字が大きいほど、見つけやすい。なぜなら数字が小さいと、原因はまず一つではないからだ。いくつか絡んでいることで、プラスマイナスが絡み合って、小さな数字になるのだ。それを思うと、
「最後になるほど、ゴールするのが難しい」
という考えになるに違いなかった。
あすみは、そこまで細かいことはなかったが、性格は結構真面目で、堅物なところがあった。そのくせ、おだてに弱いと来ている。利用しようと思う人であれば、これほど楽に利用できる人はいない。
あすみは、自分が真面目過ぎるということは分かっていた。だから損をしやすいということも分かっている。
しかし、実際に自分が損をしているという印象はなかったのだ。
印象があるとすれば、まわりの目だった。
あれだけ頼りにしてくる時や、おだててくる時は、穏やかな表情をしているのに、そうではない時、
「どうしてあれほど、冷めた目で見るのだろう?」
という感覚はあった。
確かに、人は、自分が何かをしてほしい時は、甘えてきたり、こちらが何とかしてあげたいと思うような表情になるという感覚はあった。だが、思っているのと、次第にまわりの視線が変わってきた。
それは、あすみが感じている違いとは違うという意味で、これも勝手な妄想なのかも知れない。
しかしこれを妄想だと思わないと、自分が勝手に妄想しているのだと思ってしまうに違いないと考えるのだ。
自分の感覚が今までと明らかにずれてきていることを自覚してから、その思いに変化があった時があったとすれば、
「それは、社会人になった時だろう」
と感じた。
学生時代は、中学、高校と、三年間、ほぼ似たような感覚だった。
一年生のあいだに周りになれて、二年生以降は、受験を目指すという毎日だったような気がする。特に真面目なあすみにとって、中学、高校の三年間ずつというのは、あっという間だったような気がする。
中学の時には思春期があったはずなのだが、その時は思春期を感じていたと思うのに、過ぎてしまうと、まるで夢だったかのように感じられる。
それどころか、
「私に思春期なんてあったのかしら?」
と感じるほどで、そもそも何が思春期なのかということが分かっていないという感覚である。
高校生になると、クラスメイトの男の子で、自分のことを好きになってくれた人がいるのを感じていた。
彼は、あすみに輪をかけて真面目なタイプであり、告白などありえないと思えるほどの青年だった。
あすみは、自分が真面目だという意識があるが、自分とりもさらに真面目な男の子がいると、今度はその子を苛めてみたくなるくらいだった。
実際に苛めるわけではなく、それとなく、こっちにも気があるかのような素振りを少しだけ見せて、相手を焦られて楽しんでいたのだ。
それは、きっとあすみのストレス解消になったのだろう。
これは、あすみの中にあるS性の表れだったのかも知れない。
相手も、実はMという思いがありながら、それを認めると、あすみがSだということを認めなければいけない。それは自分で許せなかったのだ。
「自分はどう思われてもいいから、あすみさんには、自分を卑下するような感覚を持ってほしくない」
と感じたようだ。
しかし、それは彼が傲慢であることを示していた。あすみの性格を勝手に思い描いて、自分の掌で躍らせるようなことになってしまうことを、自分の罪悪だと思っていたに違いない。
彼もあすみも、それぞれ、SやMの感覚を持っていながら、あと一歩を踏み出すことができない。
もし、どちらかに踏み出すことができていれば、二人は付き合っていたかも知れない。
その付き合いがどのような関係になるかを想像するのは困難だが、もし、SMの関係になっていたら、二人は結構相性が合っていたかも知れない。それを二人ともが感じていることが、その証拠ではないかと、思うのだ。
二人が付き合うことはなあったが、どこかで再会すれば、
「やけぼっくいに火が付く」
ということになるのではないかと、お互いに思っていた。
あすみは、そんなことを考えていると、今度は本の内容を思い出していた。
タイトルである。
「感と勘の違い」
というところが目についたので、本を買ったのだが、期待にそぐわない内容で、正統派の本という感じだった。
そこに書かれていたのは、第六感についての話が多く、一般的に言われている第六感と、著者の考えている第六感とが、そもそも違っているというところから始まったのだ。
その作家は女性であり、そもそも、あすみがこの本を手に取ったのは、タイトルと一緒に、作者が女性だというところにも興味を持ったからだった。
あすみも、子供の頃から、結構難しい話を考えるのが好きだったので、女性が考えた心理学的な話ということで、目が離せなかったのだろう。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次