広義の意味による研究
しかし、熱が上がり切ってしまい、身体が風邪の菌に打ち勝つと、今度は、身体の中から風邪による悪い菌を出そうとして、一気に汗をかくのである。
身体から噴き出したような汗が出てくると、今度は、冷やすようにする、解熱剤を飲んだりすることもあるだろう、
もっとも、熱が、三十八度以上の高熱になってしまうと、解熱剤や座薬を使うのが普通である。
そこまでくると、身体があと少しで熱に打ち勝つことができるので、解熱剤を使うのだろう。
ただ、インフルエンザのような高熱が続く病気は、一度や二度の解熱剤では効かないこともあるので、大変ではあるだろう。
風邪などと引いて、発熱するというのは、身体が病気に打ち勝とうとしていることなので、熱が出ること自体が悪いことではない。
それを勘違いして、
「熱が出た時は、すぐに冷やして、熱を下げなければいけない」
と考えている人も多いだろうから、そのあたりを本当はもっと分かっていると、いいのではないかとも感じる。
曖昧なものという感覚から、
「平熱と発熱、さらに平均体温との差」
というものについて考えてみたが、熱が出た時の対応というのも、結構勘違いをしている人も多いということを考えると、
「曖昧なことに対しては、結構間違った考え方を持っているものもあるのではないだろうか?」
と考えることも多かったりする。
特に最近では、世界的な伝染病などが流行る時期でもあるので、病気や病気に対しての正しい対応などということを皆がそれぞれ考えるというのも大切なことではないだろうか?
そういえば、最近、どこかの医者が面白い研究をしているという話を聞いたことがあった。
その人は医者と言っても、半分は心理学の研究もしているようで、いくつかの本も出版している。その中に。
「感と勘の違い」
なるものがあるようで、この間、本屋に行くと、その本が置いてあったので、気になって見てみたが、思わず買ってしまったのは、何か気になるところがあったからなのだろうか?
その本を三日前に本屋で見つけた人は一人の女性で、名前を、波多野あすみという。年齢は三十歳で、普通にOLをしていた。
事務の仕事を毎日、コツコツとこなす毎日だったが、真面目な彼女にはお似合いだった。少々の残業くらいなら、苦になることもない。さらに彼女はまわりから堅物と陰口を叩かれているのだが、おだてや、頼まれごとには弱く、
「波多野さん、申し訳ないんだけど、今度の休日出勤変わってくれる?」
などと同僚や後輩の女の子から言われると、嫌とは言えないタイプであった。
「ええ、いいわよ」
と、理由も聞かずに承諾してくれる。
普通は、皮肉を言われたり、理由を聞かれるのが当たり前で、皆覚悟と言い訳を考えたうえでお願いしてくるのだが、あすみは皆のお願いをただ受け入れてくれる。
ただし、あすみに対して、
「優越感を与えないとダメだ」
ということは分かっているようで、お願いに来る時の皆は、一律に腰を低くしてくるのである。
そうなると、あすみは、
「喜んで」
と口には出さないが、それくらいの気持ちを含めて笑顔でうなずくのだ。
皆は、心の中で、
「ああ、よかった。こんな人が事務所に一人くらいはいないとね」
と、ほくそ笑んでいることだろう。
「ありがとう。今度何か奢るね」
と口ではいうが、誰も後で奢ってくれないことくらい、あすみには分かっていた。
自分が利用されていることくらいは、ずっと前から分かっていた。分かってはいるが、
「私の取り柄はこれくらいだからな」
という思いと、
「ここで断って、変に嫌われるのも、本意ではない」
という思いがあるのも事実だった。
ただ、まわりから嫌われても構わないという思いは持っていた。
学生時代から、結構まわりから離れたところにいて、誰かとつるんだことはなかった。「一度くらいは集団とつるんでもよかったのに」
と思ったこともあったが、それはあくまでも、中学生くらいの子供の考えとして思ったことだったと、感じていた。
そもそも、小学生の頃から人と馴染めるような人間でなければ、思春期以降、人と絡むことができなくなるということは自覚もしていたし、実際にそうだったのだ。
だから、後悔をしているわけではない、
後悔をしても仕方がないという思いもあるが、それ以上に、
「今さら人と絡むなどということを考えてどうするんだ」
という考えであった。
そのことを今さら思うということは、頭の中を子供に戻さないとできないことだと考えていた。
頭の中を子供に戻すなどできっこない。もし、そんなことができたとしても、まわりは皆大人なのだ。子供に戻った自分が同じ状態でつるむことができるとすれば、小学生しかいない。
そんな状態を想像することなどできるわけもなく、そんなことを考えてしまった自分が恥ずかしくもあった。
だから、余計に、まわりの人と絡むようなことはしないようになり、だから、人に媚を売るようなこともない。
逆に自分を利用しようとしているのかも知れないが、自分に媚を売ってくる人たちに対して、
「あんたたちの考えなんかお見通しよ」
とばかりに、自分の中だけで上から目線になっていることを感じていた。
もちろん、まわりの人に気づかれないように、細心の注意を払わなければいけない。それでも、こんな感情を持つというのは、自分の中での密かな楽しみとして、自分の中では、申し訳なさそうに頼んでくる皆を見ていることで、優越感に浸るのだ。
まわりは、そんな彼女に優越感を味わわせようとするのだから、
「願ったり叶ったり」
と言えるのだろうか。
あすみは、それからその本を注意深く読んでいた。あすみは、本を読むのが得意ではないと自分で思っていて、その理由は、
「ついつい気が散ってしまうからだ」
と考えていた。
なぜ気が散るのかというのは自分でも分からなかった。作者のように、焦りがあるというわけではないようで、見た目はいつも落ち着いた環境で本を読んでいる。ただ、本を読んでいると、ついつい余計なことを考えるのだという。
彼女の性格が真面目過ぎるというのか、
「集中して読んでいると、その本の内容を勝手に想像してしまって、つい余計なことに考えが及んでしまう」
というのが、彼女の特徴のようだった。
作者も、想像するというのか、妄想に走ってしまう時がある、ただ、本を読んでいて妄想してしまうことはなく、妄想することを、自分では悪いとは思っていない。
だから、小説が書けない。本をまともに読むことができないという理由に、
「妄想するからだ」
という考えが入る余地がないような気がしたのだ。
小説を書く時は、集中しないと書けないが、本を読む時は、同じ集中でも違っているような気がする。
本を読む時は想像するものであって、小説を書く時は妄想するものではないかと作者は考えているが、ひょっとすると、他の人で、
「俺には小説を書けないと考えている人がいる」
とすれば、その人は、
「妄想することは、決して悪いことではない」
と考えるようにすればいいのではないかと思うのだった。
作品名:広義の意味による研究 作家名:森本晃次