意識と記憶のボタンと少年
自分たちだけが法律を理解していてはいけない。国民に広く分かりやすいものでなければいけないということは、有事になると、混乱したり、デマが飛んだ李するということが立証されているだけに、。法改正には、慎重には慎重を期することは大切なのである。
他にもいろいろなプロジェクトがあった。
国家治安を有事の際にいかに保たせるかという問題もあった。
「警察組織以外に必要だろうか?」
という問題もあったが、そこに関わってくると、政治家がソーリの権限で利用する、
「特高警察」
などという、ほぼ、拷問だけしかしていないような警察が蔓延るのは、国家の破滅を意味することなので、さすがにこの結成は難しいだろう。
だが、今のまま、法律だけが厳しくなっても、それを守るための機関が必要になるのは当たり前のこと、このあたりの問題が、ある意味一番難しいのかも知れない。
格の抑止力
そんな時代において、有事ではなくなってくると、犯罪が多様化していた。有事の際にだって、ほとんどの産業が疲弊し、さらには壊滅していたにも関わらず、特需に沸いた職種もある。
さらに、詐欺やサイバーテロなども、目立たないが起こっていて、品薄のものを、最初に買い占めておいて、転売を行うなどという問題も出てきた。
転売に関しては。法改正を直ちに行い、臨時の応急的な法律であったが、転売をできないようにしたのは正解だった。
いや、元々あった法律に、今回の件を当て嵌めただけではあったが、それでもできたのだから、
「前政権としては」
という但し書きがあるが、出来ていたのだった。
こんな時代において、今は少し中途半端な時代でもあった。
いわゆる、
「戦後の混乱期」
と言ってもいいだろう。
人間は廃墟の中から、闇市などもあり、何とか生き抜いてきた時代があったのだが、今は実際に、街が廃墟になったわけでも、食料が配給制になったわけでもなく。どちらかというと、まわりの産業は様変わりしたが、生活がそこまで変わったわけではない。
医療崩壊していた時は、死ぬ思いをした人もたくさんいて、
「もう、二度とあんな思いはしたくない」
と思ってる人もたくさんいただろう。
しかし、分かっていながら、人間というのは、すぐに忘れてしまう動物なのだ。
いかに、死ぬ思いをしても、数年も経てば、
「あの時は酷い目にあった」
と言って、振り返ると、背筋に寒いものを感じるのかも知れないが、今の生活を行えるようになると、
「もう一度同じことが起これば、同じことを繰り返すか?」
と聞かれると、言葉では、
「そんなことはないですよ。もうあんな死にかけるような目に遭うのは、まっぴらごめんですよ」
というに違いない。
しかし、本当にそんな気分になるだろうか?
「喉元過ぎれば熱さも忘れる」
という言葉がすべてを表している。
夢だって、目が覚めれば忘れているものだ。
ショックなことが起これば、人間は、
「時が解決してくれる」
と思うだろう。
確かに、時間がたてば、傷も癒えるし、傷口も塞がって、痛みもなくなる。
しかし、忘れてしまっていいことなのか、いけないことなのかということを、自分で分別できないのも人間である。
嫌なことを忘れられるというのはいいことであるが、忘れてはいけないものだけを覚えているというような器用なことは人間にはできないのだろうか?
もっとも、これには個人差がある。
「個性だ」
と言ってしまえばそれまでなのだろうが、果たしてそれでいいのだろうか?
今のように、一度世界は地獄を見たのだ。それは世界大戦後のことでも同じのはず。
それでも、人間は同じ過ちを繰り返すのだ。いくら検証しても同じなのかも知れないが、検証もしなければ、先に進むことができないどころか、後ろ向きになってしまうと言ってもいい。
前政権まではそれができなかった。今度の政権では少なくともしようとしている。
そのために、有識者を組織し、有事の時にも、
「専門家の意見を聞いて」
などと言っていたが、実際には、まったくいうことを聞いていなかったではないか。
それを思い出すと、
「専門家の選定から、親権でなければいけない」
と言えるだろう。
前々政権などは、自分たちに都合のいい人を残すため、定年を延長するために、法改正まで考えていたくらいで、しかも、その男は、スキャンダルで自滅したという茶番があったのを覚えているだろうか?
しかも、懲戒処分であるべきなのに、退職金が普通にもらえる、実に軽い処分を国が示したというところから、国民が政府に嫌気がさしている状態だったので、
「どうせ、今の政府ならありえることだ」
と言って、あきらめムードだったのもあるだろう。
他の国だったら、暴動が起こっていても不思議はないくらいだ。そういう意味で、日本という国は、どれほど平和ボケをしている国かということが分かるというものだ。
法律関係のプロジェクトも、たくさんの有識者を集めて、医薬薬学関係のプロジェクトと平行して行われていたのである。
さて、F大学の薬学研究チームには、政府から指名を受けた時点で、自分たちの考え方を独自に持っていたのだ。
というのも、有事の際には、どこのチームかはハッキリとしないが、
「どうせ、当時の政権に都合のいいところが選ばれていたんだろうか?」
と言いながら、何かのチームが存在したということは聞いている。
しかし、完全に国家機密となっていたので、その内容を知ることもできないが、今となって思うと、
「本当に活動していたのだろうか?」
と、まるで、形だけだったということがハッキリしている。
それを考えると、今はどの大学が選ばれているかくらいのことは分かっている。ただ、そこから先は完全な国家機密だということで、公表もされていないし、サイバーテロに対しても、セキュリティはしっかりとしていた。
今までの国家はある意味ザルに近かった。何しろ、国家が公認していたチームは、自分たちの、
「おともだち」
で形成されていて、利権が絡んでいなければ動かないところであった。
だから、成果などは二の次であり、利権さえ保たれればそれでよかった。
「政治家は、国民のためにいるのではなく、おともだち同士の慣れ合いと、利権のためにいるのだ」
と言っても過言ではなかっただろう。
誰も、そんなことも分からずに、いや、知っていたが、諫められる人はいない。
やつらは、
「国民によって自分たちは選ばれたのだ。俺たちが何をしようと、関係ない」
とまで思っているのであろう。
もし、そう思っての行動でなければ、まともではない。そもそも、その考えがまともではないのだが、まともではない考えを、まともな人がするのだから、理屈ではないということになる。
「政治家ほど、国民を欺き。さらに、亡国へと導いているものはない」
と言われて、果たして反論できるであろうか?
そこまで言われるのも、今の日本の特徴なのだろう。何しろ、言論の自由が憲法で保障されているからだ。
「これが本当にいいことなのか悪いことなのか?」
それこそ、
「本末転倒の無限ループだ」
作品名:意識と記憶のボタンと少年 作家名:森本晃次