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意識と記憶のボタンと少年

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 と言われるようになっていた。
 問題は、医療崩壊なのである。
 医療がひっ迫してくる原因としては、
「モノが伝染病なので、伝染病患者を受け入れるには、一般の個人病院のように小さいところでは、一般の患者に移してしまう」
 という危険性から、受け入れ拒否をする病院が多いという問題。
 さらに、今度は患者が増えてくると、医療従事者の数が足りなくなるという問題から、救急搬送が難しくなる。
 つまるは、救急車を呼んでも、入院はおろか、救急車で、何時間も待たされる。結局受け入れできないということで、また自宅に戻されるということも起こってくる。
 さらには、自宅で療養していて、そのまま亡くなる人も出てくると、完全に、
「救える命が救えなくなる」
 ということになる。
 そういう意味で、今までの不治の病で苦しんでいる人、長期入院している人に対して、何かの特効薬があれば、一階の手術や、手術を行わなくても、薬の投与で、病巣が消えていくなどという薬を開発できれば、入院患者もどんどん退院していき、医療のひっ迫を少しでも抑えることができるというものである。
 もちろん、未知のウイルスがどれほどの猛威なのかは、
「捕らぬ狸の皮算用」
 と言われるように、予測がつくわけではないが、それでも、少しでも従来の難病が解消されれば、そこから医療のひっ迫の可能性が少しでも和らぐということもあったりする。
 実は、まだ公表されていないが、今の十くらいの大学に働きかけている中で、私立の病院と、国立の病院の一つずつに、
「特命」
 が課せられている。
 これは、今の体制をさらに画期的にできるという考え方であるが、それはあくまでも可能性として、どこまで確証があるか分からないということで、すべてをそちらに向けてしまうと、
「不可能だった」
 ということになってしまうと、せっかくの先手先手は無になってしまう。
 それでは本末転倒だということなのである。
 それらの研究をF大学が、
「国立校の中の一つ」
 ということで開発していた。
 この大学は、主要都市の中では、それほど大都市ではないところで開発されていうのだが、ここにいる教授は、一度ノーベル賞候補にもなり、医学界では、レジェンドとしての地位も確立している名誉教授がいることで、
「選定された大学」
 ということになったのだ。
 この教授の研究はユニークで、元々、この研究の提言をしたのがこの教授なだけに、選定されたのも、当然といえば、当然のことである。
 名前を湯浅教授といい、彼は他の教授と比べると、それほど上から目線というわけではないが、他の教授連中と変わりなく、一種の、
「変わり者」
 であった。
 意地を張るところは、まるで子供のようなところがあり、研究に関しては、まるでヲタクであるかのように、それ以外のことに関しては、まったくの無知であり、知らない人が見れば、
「老人のヲタクなんて、残念を通り越して、終わってるよな」
 と言われるような人であった。
 さすがに白衣を着ると、それなりに貫禄があるのだが、湯浅教授を知らない人が見れば、
「老人がコスプレなんて」
 と言われるのがオチである。
 そういう意味でも、学生から尊敬されている反面、
「湯浅教授のようにはなりたくないな」
 という学生も多く、
「研究者としては尊敬できるが、それ以外の部分では、ちょっと……」
 と言われるほどの人だった。
 だが、
「研究者なんて、多かれ少なかれ、変人が多い」
 という都市伝説のようなものを地で行っているような教授だと言ってもいいだろう。

                他のプロジェクト

 現在の日本には、この、
「難病克服新薬開発プロジェクト(仮)」
 以外にも、いろいろな国家プロジェクトが存在した。
 前述のように、以前の腐敗した内閣に比べて、今の内閣は先手先手で政治運営を行っていた。
「今の時代は躊躇していては、何も前に進まない」
 と叫ばれ続け、今までの腐敗しきっていた政府に、それだけの意識が本当にあったのか、分かったものではなかった。だから、少なくとも先手先手を打ってくれる今の政府は、それまでの、少なくとも、先代先々代の、まるで、
「売国政府」
 と呼んでもいいくらいの連中に比べれば、はるかにマシだったのだ。
 政策も、選挙公約の時から、ブレることがなかった。ほとんどの政府は、公約をいくつも掲げておきながら、どんな形であれ、最後になった時には、
「結局何もしていない」
 と、見られて終わってしまう。
 何かのスキャンダルがあって、辞めなければならない場合であっても、仮病を使って、病院に逃げ込む場合(二度も同じ手を使ったやつもいたが)場合であっても、任期満了によって、総選挙となった場合であっても、結局は大差はなかった。
 むしろ、任期満了まで、支持率が最低になってから、さらに史上最低の支持率を保ちながらも、最後までやったのだ。
 もし、これが政治以外のことであれば、
「なんだかんだ言っても、初志貫徹するのは素晴らしい」
 と言われるのだろうが、事が政治ということになれば、
「世間を引っ掻き回して、メチャクチャにしておいて辞めるくらいなら、最初から辞めてくれた方がよかった」
 としか言われないのだ。
 もし、それが記録に残ることであったとしても、記憶には悪いものしか残らない。
 夢であれば、
「悪い夢だけは覚えているんだけどな」
 ということになるのだろうが、政府に対しても同じことが言えるようだった。
「いい政治をしてくれた人に対しては。総理の名前は憶えているのだが、悪性だったソーリにたいしては、やったことと、名前をセットで覚えているものだ」
 と言えるのではないだろうか。
 歴史だってそうである。
 歴史上、世の中に貢献したり、何かを発明したりする人のことは、その人の名前だけを暗記するかのような感じではないだろうか。だから、
「歴史というのは、暗記物なのだ」
 と言われているのかも知れない。
 それもそうだろう。日本史だけをとっても、皇紀2600年経っているものを、中学であっても、高校であっても、三年で勉強するのだから、百年を二三週間で教えることになるのだ。歴史ばかりを昼夜にかけて、休みなしで教えても時間が足りないくらいだ。
「そりゃあ、暗記物になるよね」
 ということであるが、意外と衝撃的な事件であったり、クーデター、あるいは、事件の歳のダーティヒーローであったり、暗殺された人間に対しては、気になって頭に残っていることが多い。
 それが日本人特有の、
「判官びいき」
 と呼ばれるものであろう。
 しかも、最近は、歴史研究もかなりの精度で研究が進んできていて、かつての定説を覆すものもたくさん出てきた。
 今まで教科書に乗っていた偉人の肖像が、実は本人ではなかったという話もかなり定説になっている。
 肖像画が手に持っているものが、その人物が活躍試打時代には、存在しなかったと思われるものを持っていたりすることで、分かってきたのだ。それだけ研究が進んできたということであろうが、そういう意味では、お札の肖像として、昭和までに、何度もお札を賑わしてきて。
「お札肖像の代表」