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意識と記憶のボタンと少年

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「成人の日」、「子供の日」、「海の日」、「勤労感謝の日」などであるが、「の」が入っていない祝日の方が圧倒的に少ない。憲法記念日、くらいではないだろうか。
 この「の」は入っている祝日というのは、
「その日にちを変えることができる」
 というものである。
 かつては、春分、秋分の日などのように、最初から日にちを決められないもの以外は、基本的に日にちをずらしたりはしていなかった。しかし今は、休日を生かして、国民に消費を促そうという政府の姑息あ考え方で、成人の日、、敬老の日、体育の日などが、毎年可変する祝日となり、日付が毎年変わる祝日となった。
 特に、令和二年と三年は、オリンピックの開会式に合わせて、祝日を大幅に変更するという暴挙を政府がやったりした。そもそも、昭和三十九年の東京オリンピックの開会式は十月十日だったのに、アメリカの都合、いや、オリンピック委員会の視聴率によるアメリカへの忖度のため、真夏に行うという、選手のことをこれっぽっちも考えないような大会になり、オリンピックが地に落ちたと言われる状況になってしまった。
 余談になってしまったが、日本という国は、諜報活動を盛んに行い。それにより、列強に劣らない作戦を水面下で進めるというやり方にも長けていたのであった。日露戦争の勝利はまさにその賜物だったと言えるのではないだろうか。
 大日本帝国の諜報活動というと、まずは、日露戦争における。
「明石機関」
 と呼ばれるものがあった。
 明石元二郎と呼ばれる、陸軍大佐がいたが、彼が当時のロシア帝国の首都であったペテルブルクのロシア公使館に着任後、日露戦争が勃発したことで、ストックホルムに移り、そこで日英同盟の相手国、イギリスのスパイと仲良くなったことから、明石はその男に依頼し、スパイは極東の満州にある旅順に移り、そこでロシア軍司令部の信頼を得たことで、旅順港における当時は東洋一の大要塞と言われた、難攻不落の、
「旅順要塞」
 の設計図や、ロシア軍の動向などを手に入れることができた。
 それに従って。陸軍における、
「旅順艦隊撃滅作戦」
 を成功させるための、旅順攻略に役立たせることに成功した。
 旅順艦隊の撃滅は、陸軍が海軍からの要望の一番大きなものだった。
「ロシアの極東艦隊である、ウラジオ艦隊と旅順艦隊。さらに、主力艦であるバルチック艦隊が一緒になれば、日本に勝ち目はない」
 というものだったのだ。
 そのうちの旅順艦隊の撃滅は、日本という国の、いわゆる、
「皇国の荒廃」
 を示していた。
 もたらされた情報を元に、旅順艦隊を撃滅し、さらにはロシア軍の動向をイギリスからの情報によって得ることができ、バルチック艦隊の進路や予定も情報として入ってくる。さらに、バルチック艦隊の航路としては、欧州から、アフリカまわりでインド洋に入り、そこから東南アジアを通って日本近海に来るということだが、その途中にあるのがイギリス植民地だ。日本と同盟を結んでいるイギリスの植民地が、ロシアの食料や燃料の補給に協力するわけがない。寄港さえ許すわけがなかった。長い航海において、疲弊した状態でやってきた艦隊と、十分に整備を行い、士気が最高潮となった迎え撃つ日本海軍とでは、最初から勝負はついているというものだ。新兵器である、
「下瀬火薬」
 などが威力を発揮し、何と、半日でバルチック艦隊を壊滅させるまでになったのだ。
 さらに、陸軍は奉天にてロシア軍を打ち破り、ここから、アメリカの仲介で、講和に入る。まさに、アジアの小国が世界の大国であるロシアに勝つための唯一と言ってもいい筋書き通りに行ったのだ。つまり、諜報活動なくして、日本の実質的な勝利はなかったと言えるであろう。
 さて、諜報活動では、満州における諜報活動も大きなものがあった。特務機関として正式に作られたものであり、代表的なこととしては、例えば、満州国建国のために、当時、天津の日本人租界にいた、清国の最後の皇帝である、
「愛新覚羅溥儀」
 を擁立したことであろうか。
 辛亥革命によって、新子奥が滅亡し、当時の溥儀が退位させられたのだが、紫禁城においては、清国は存続することになった。しかし、溥儀が青年になった頃に、今度はその紫禁城からも退去させられ、諸外国に保護を求めたが、応じてくれたのは、日本だけだった。
 日本の租借地がある天津に、婉容皇后、さらには第二夫人である文?とともに、滞在していたが、日本が満州国建国の際に、執政として招きいれ、国家元首の座に置くため、満州へと連れてくることになる。この一連を特務機関が行ったわけで、日本は最初から溥儀を利用するという意味で、保護したのだった。
 満州国はあくまで独立国で、しかも、溥儀を皇帝につけ、満州帝国という位置づけにしたのであった。
 日本国の立ち位置は、同盟国のような立ち位置であろう。しかし、内情は、日本の関東軍が掌握していて、皇帝、国務院総理といえども、関東軍に口出しはできない。国務院総理だった男が、議会で一言も発言しなかったという話があるほどで、皇帝が何を言おうとも、議会で承認されなければ、国家での皇帝の権威はないというものだ。
 つまりは、日本の操り人形。傀儡ということになるのである。
 ただ、この満州建国はあくまでも、日本における移民の受け入れ、そして、ロシアに対してのけん制の意味だったのだが、事変を、
「関東軍による独断専行が許される」
 という前例を作ってしまったことで、中国本土での戦果拡大に陥ってしまったのだ。
 そもそもの満蒙問題解決はうまくいったが、後が悪い。
「戦術では勝っても、戦争では間違った道に進んでしまった」
 ということになるであろうか。

               国家プロジェクト

 F大学における研究は、国家プロジェクトが絡むものであった。全国の主要都市にある国立大学、さらには、有名教授が所属する私立大学、それぞれ合わせた七大学に、
「不治の病の特効薬の開発」
 を命じた。
 それらの新薬開発は、以前に全世界で流行ったウイルスによって、医療崩壊を起こしてしまったことでの教訓として、
「あのウイルスは今、一定の猛威から少し鎮静化されてきた。現在では特効薬も開発され、季節性のインフルエンザくらいの認識でいいくらいにまで落ち着いてきた。しかし、今後どのような恐ろしいウイルスが出てくるか分からない。あの時の医療崩壊を二度と起こさないようにするための努力の一環として、現在、不治の病とされているものを少しでも少なくし、救急搬送や入院をしても、短い期間で元気になって退院できるような体制を整えておかなければいけない。それに平行して、医療体制や法整備も一緒に進めなければいけないと思っております。そこで、我々が選定した大学の皆さんには、このプロジェクトに参加いただいて、新薬開発に邁進していただきたい。そのための予算は、この間の国会で計上しておりますので、安心して、開発の方をお願いしたい」
 というのが、政府の考えであった。