意識と記憶のボタンと少年
確かに満州は日本の関東軍が掌握していて、満州国という国を作りはしたが、傀儡国家であった。だが、名目上が独立国家であり、別に侵略後の植民地というわけではない。それなのに、なぜ、植民地支配という世界を作り上げた国から批判されなければいけないのか、理解に苦しむというものである。
しかも中国本土に対しては、当時の清国に対し、特にイギリスなどが、
「貿易で損をするから」
という理由で、麻薬のアヘンを中国に蔓延させ、アヘン貿易で、イギリスが設けるというような、ヤクザのようなやり方を、国家ぐるみで行ったという恐ろしい植民地の獲得方法だった。
当時の清国はすでに弱体化していて、イギリス軍の最先端の攻撃に耐えることはできず、結局さらに植民地としての様相を呈してきた。
しかし、中国本土は広すぎるので、いろいろな国は権益を求めて中国に迫り、租借地などを獲得していく。中国は完全に、列強に食い荒らされた形になっていたのだ。
清国が弱体化し、ちょうど十九世紀の世紀末に起こった、列強に対しての反抗と母国申告を守ろうという団体結社である、
「義和団」
と呼ばれる組織が台頭してきた。
スローガンを、
「清国を助け、外国勢力の滅亡を図る」
という意味の、
「扶清滅洋」
ということで、立ち上がったことに清国の実質的な支配者であった、西太后が、何をとち狂ったのか、欧米列強に、いきなり宣戦布告を行ったのだ。
まさか、義和団のような勢力を政府軍にも劣る新興勢力を当てにしたのか、それとも、義和団から、宣戦布告をするように、脅迫されたのか、真意は分からないが、八か国くらいに宣戦布告をしてしまったので大変だ。
諸外国は多国籍軍を形成し、北京を数日で占拠、それにより、さらに清国は窮地に追い込められ、国内の反乱である、孫文らによって、革命を起こされ、滅亡してしまう。それが辛亥革命というものであった。
その後中国は混乱し、中華民国が成立したのだが、袁世凱による臨時大総統から、袁世凱の最終目的であった、皇帝に上り詰めたことで、一時期、中華帝国となったのだが、それを全世界から承認されず、半年ほどで袁世凱が退位することで、帝国は元の民国に戻ったのだ。
その後、日本による「対華二十一箇条要求」などによって、袁世凱の求心力は低下し、彼の死後の中国は乱れてしまった。
奉天派、直隷派、国民軍などの派閥ができてきて、内乱時代に突入する。奉天派を支援してきた日本だったが、その軍閥の長であった張作霖が、日本に反感を持ち、日本の権益である満州鉄道の平行線に自分たちで鉄道を敷くなどという、あからさまな態度に業を煮やした関東軍が、張作霖を爆殺してしまったことで、満蒙問題がリアルとなり、その後の満州事変に突入する。
日本において、中国大陸に、いくつかの特務機関が置かれていた。奉天やハルビンなどの満州主要都市に置かれていたものだが、その内容は、諜報、宣撫工作・対反乱作成・秘密作戦などと呼ばれるもので、主に、相手国への内偵(スパイ行為)であったり、テロ工作や、相手への陽動作戦などであろう。
もちろん、諸外国にも日本の特務機関のようなものが多数存在し、特にロシアによるスパイ行為は結構あった。
「ゾルゲ事件」
などもその一つで、国家がソ連になってからは、各国の共産化に向けての諜報活動が盛んであったのだ。
それがいずれ、共産圏というものを作り出し、民主主義国家との間に大きな壁を作ることで、戦後の、
「冷戦時代」
を迎えることになる。
戦後は、主に植民地の独立がさかんとなり、奇しくも日本が目指した、
「大東亜共栄圏」
であるところの、
「アジアの欧米からの独立」
が果たせることになったのは、皮肉なことだった。
そういう意味で、日本の国家が行おうとしていたことは間違っていなかったと言えるのではないだろうか。日本がアジア各国を統治していた頃に建設したインフラが、結局、独立した後のアジア各国の経営を支えたのだから、かの戦争を、元々閣議決定された名前である、
「大東亜戦争」
と言ってもいいのではないだろうか。
「太平洋戦争」
という言葉は中途半端で、日本が戦争を行った範囲は広く、中国全土だけではなく、インドシナを含む東南アジア、ビルマやインドなどと東アジア全般で、まさに、
「大東亜」
なのだ。
「日本による、東アジアを植民地支配から救って、大東亜にそれぞれの共栄の国を作る」
という大義名分が大東亜戦争である。
確かに占領統治されている時代においては、大東亜戦争という言葉はタブーであっただろうが、
「サンフランシスコ平和条約が締結されたことで、日本への占領統治の時代は終わり、日本は独立国家になった」
という事実があり、独立国家である以上、それまでタブーとされてきた言葉を使っても構わないはずだ。それを反日思想のマスゴミが、今でも大東亜戦争という呼称を使わないという慣例を設けたのかも知れない。
さらに、おかしいと思われる表記がいくつかあるのだが、もちとん、考え方はいろいろあるので、一概には言えないという前提での話になるのだが、
日本は、昭和二十年の八月十五日を、
「終戦記念日」
と呼んでいるが、なぜか、
「配線記念日」
ということはない。
この日に起こったことは、日本がポツダム宣言による無条件降伏を受け入れるという意思表示を示し、天皇がマイクの前に立ち、その旨を国民に宣言するという、いわゆる、
「玉音放送」
が流された時だった。
その時を持って、日本は生まれ変わったと称する人が多く、その後の祝日を制定する時の、建国記念の日をいつにするかということで、いろいろな意見があったという、今の皇起を起源としての、二月十一日以外にもいくつか案があったが、その中に、日本のいわゆる終戦記念日としての八月十五日を建国記念としようというものがあったというが、果たして八月十五日で正解なのだろうか?
あれは、幸福を受け入れた日ということで、本来の降伏文書に調印したのは、その半月後の、戦艦「ミズーリ」の艦上において、降伏文書が調印された九月二日を持って、終戦というのであれば、分からなくもないが、なぜ日本は八月十五日を終戦記念日としているのか理解に苦しむことである。
そういう意味で、建国記念の日への候補が九月二日だとするのが正解ではないかと思うのは作者だけであろうか?
戦前であれば、二月十一日というのは、
「紀元説」
と呼ばれていた。
建国記念の日の意見としては、当時の日本社会党の案として、日本国憲法の施行された五月三日、今の憲法記念日にしようとする案。さらには、公明党の組織母体である創価学会の池田大作によるサンフランシスコ講和条約の発効日である、四月二十八日という意見も出たという。
さて、ここで一つ国民のほとんどが勘違いをしているのではないかと思われる、二月十一日の名称であるが、あれを、
「建国記念日」
と思っている人が多いのではないだろうか。
実際には、建国記念と日の間に、「の」が入り、
「建国記念の日」
というのが正式名称なのだ。
ちなみに、「の」が入っている祝日というのは、現在、ほとんどがそうである。
作品名:意識と記憶のボタンと少年 作家名:森本晃次