意識と記憶のボタンと少年
というワードに、桜井刑事も白石刑事もビックリさせられたのであった。
「記憶喪失というのは、それは病院で診断なんですか?」
と聞かれた玲子は。
「いえ、私が見ていて感じたことなんです。だから、一種のという言い方をしたんであって、実際には違ったかも知れないんですが、痴呆症というところまで一気に考えるのではなく、意識が記憶に格納される過程に、何か障害のようなものが起こっているのではないかという意味での、記憶喪失だということなんですよ」
と答えたのだ。
「何となく分かるような気がするんですが、言葉にしようとすると難しい気がしますね」
と、桜井刑事は苦笑いをした。
それは先ほどの白石刑事の嘲笑に似た苦笑いではなく、明らかに苦笑いの相手は自分自身だというところが違う理由だったのだった。
「そうですか、なかなか難しいところですよね? では、それを私の言葉にしてもかまわなければ、ご説明してみたいと思うのですが、いかがでしょう?」
と玲子は言った。
「ええ、もちろん構いませんよ。逆に私はあなたの口からききたいんです。私としても、咀嚼して聞いていくつもりですから、どうぞ自分の言葉でお話ください」
と、桜井刑事は言った。
窃盗事件との関係
そういえば、白石刑事にもかつて似たような経験があった。
あれは、三年くらい前の事件だっただろうか。自分が逮捕した犯人の記憶が取り調べ中に急に消えたことがあった。それまでは、事件について、抗うこともなく普通に話していたのだ。
「観念したんだろな」
と思っていたくらいで、まるで堰を切ったかのように話し始めたので、こちらとしては楽だった。
それなのに、急に、
「覚えていません」
と言って、口をつぐんでしまった。
それまでに供述したことすら、記憶にないと言い出したので、
「罪を逃れたいがための言い訳をしているんだ」
と思っていたのだ。
ただ、捕まって、、状況証拠もしっかりしていて、いまさら言い逃れなど無意味と思える段階になって、
「何を今さら」
と思っていたのだ。
だが、その時の白石は冷静になれなかった。冷静になっていれば、彼の言い分が無意味だということが分かったのであろうが、せっかくここまで取り調べがスムーズに行ったのに、まるで妨害されているかのようで、姑息な手段にしか見えないという白々しい態度に苛立ちを覚えたのだ。
そうなると、
「やつの言っていることは、罪を逃れたいがための言い訳にしかすぎない」
としか思えなくなっていた。
「お前は、この間の話とまったく違うじゃないか?」
と言って、責め立てるが、容疑者の方とすれば、
「何と言われても、覚えていないものは覚えていないんですよ」
と必死に訴えていた。
それまで、観念していた態度からは想像もできないだけの変わりようなので、こちらとしても、ありえないとしか思えない。
だが、結局それは本当のことだった。ただ、そのすぐ後になって分かったことであったのだが、この事件にはさらにウラがあって、他の事件と一緒に考えなければいけないもので、この容疑者を、実際の事件の犯人として起訴してしまうと、もう一つの事件でも、容疑者として挙がってきた名前だったのに、何とそれがこの男のアリバイになるのだった。
もう一方の事件の方が罪は重く、
「なるほど、だからこそ、今回の事件を簡単に自白したんだな」
ということであった。
しかし、それはあくまでも、この男がそっちの事件とも本当に絡んでいて、天秤にかけた結果の態度であったとすれば、完全に確信犯だということになる。
それこそ姑息だというものだ。
しかし、ここで、彼がいまさらのように、自分の事件で覚えていないといって、罪を逃れようとすると、こちらが釈放した瞬間に、もう一つの事件の管轄署がやってきて、さっさと逮捕していくに違いない。
それを思うと、この男がこの事件で、証言を覆すというのはありえないことだった。
しかし、もう一つありえるとすれば、もう一つの事件で、別の容疑者が捕まったということであれば、話は別だ。
だが、その男が本当に罪が確定してしまわなければ、自分への容疑が消えることはない。もし相手に完全なアリバイでもあったとすれば、こちらに容疑の矛先が向いてくるのは決定事項であった。
それを思うと、簡単に、諦めるわけにはいかない。
だったら、このまま素直にこっちの事件でお縄になってしまった方がいいに決まっている。
傷害罪というだけなので、実刑となったとしても、執行猶予がつくだろう。ひょっとするとこの男からしてみれば、
「もう一つの事件で、なまじ別の容疑者なんかが上がってくるから、余計なことを考えさせられるんだ」
と言いたかったのかも知れない。
その時の事件では、その男は本当に傷害罪の方での罪が本当で、殺人の方は冤罪ということだった。
彼は殺人罪の方では、一番容疑が強かった。動機も一番あり、その人が死ぬことで一番得をするのが、彼だったのだ。
だが、
「いかにも犯人らしい人間はほとんどの場合、シロである」
という、まるで、
「犯人あるある」
とでもいえばいいのか、いかにもその法則に則っていたのであった。
その時、後で調べてみると、彼は本当に一時期、部分的な記憶喪失だったようで、
「取り調べの緊張が、彼を追い詰めることになった」
というのが、医者の見解だったことから、査問委員会を設立し、調べられることになったが、最後には、
「捜査員には、行き過ぎということはなかった」
ということが公表され、晴れて、刑事課に復帰できることができた。
しかし、一度身についたトラウマはどうすることもできず、桜井刑事が赴任してくるまでは、ほとんど捜査をまともにできないくらいだった。
そんな状態のところに、昨年、桜井刑事が、K警察署から赴任してきた。
どうしてこちらに移ってきたのかということは公表されていなかった。桜井刑事が何かをしたという話を聞くことはないし、桜井刑事に関しては、レジェンド的な話しか聞こえてこないので、誰にも分からなかった。
ただ、どうやら、F警察署の署長が、K警察署の署長と昵懇であり、F警察署の署長の方が先輩ということもあって、どうやら、F警察の署長が、K警察署に、
「誰か、いい刑事をこちらに」
という話があったということである。
K警察の署長も、F警察での白石刑事のことは聞いていたので、きっと白石刑事のことを考えてのことだというのが分かっていたので、快く承知したようだった。
桜井刑事としても、別にずっとK警察にいるとは思っていなかった。
「警察官たるもの、同じ県警の間であれば、転勤はつきもの。言われれば、どこにだっていくさ」
と日頃から言っていたのである。
そして、その時一緒に、
「どうせ行くのであれば、望まれていくようであれば、嬉しいんだけどな」
とも言っていた。
だから、今回は望まれているということを、K警察署の署長から聞いていたので、自分では、
「栄転だ」
と思っていた。
迎える側のF警察の署長の方も、
作品名:意識と記憶のボタンと少年 作家名:森本晃次