意識と記憶のボタンと少年
しかも、核兵器には二次被爆と言われる放射能による災害が残っている。生き残ったとしても、放射能による二次被爆で、ジワジワ死んでいくという悪夢が待っているのは、目に見えているのだった。
当然起爆装置には、安全装置が施されているのだが、独裁者の机の上に、
「核のボタン」
があるのでは、ちょっと手が触れただけで、核ミサイルが発射してしまうという問題を引き起こしかねない。
操作としての、制御もそうであるが、兵器としての制御も問題になってくる。
確かに相手を壊滅させることはできるであろうが、相手が打ってくる前に相手に着弾しないとも限らないわけで、相手の年を壊滅させたとしても、そこに放射能が残ってしまえば、その土地はほとんど何十年と人が住めなくなるだろう。となると、核兵器がさく裂した後に、放射能が残らないような効果をもたらさねばならない、核兵器における制御というのは、そういうものも含めていうのではないだろうか。
これらの問題は、どんな兵器にも言えることで、途中開発されたものとして、どこまで可能だと言われたのか分からないが、
「建物は残して、生物だけを抹殺する核兵器」
ということで、開発された中性子爆弾などもある。
中性子爆弾は、生物の殺傷を目的としたもので、規模が小さい核爆発ということで、残留放射能を抑えることができるというのも、一つの成果でもあった。
建物は残っていて、生物だけが死んでいるという状況がどういうものなのか、想像もつかないが、それを考えると、兵器としては優秀なのだろうが、まるで、
「凍り付いてしまった世界」
を想像させることになるだけは想像できる。
「まるで、時間が凍り付いてしまった」
といってもいいのではないだろうか。
そういえば、以前、アニメで見たことがあったのだが、凍り付いてしまった世界に紛れ込んでしまった主人公は、実はよく見ると、
「時間が凍ってしまったところに紛れ込んでしまった」
という話であった。
警官が拳銃を発射しているのだが、その弾が空中で止まっているように見えたが、ゆっくりと動いているのである。普段であれば、早すぎて弾が飛んでいうところを見ることなどできないのだ、その時間が凍り付いた場所では、ゆっくりと時間が進んでいるのだった。
まるで水の中のように、色はなくなっていて、すべてがグレーであり、その濃淡で、色を表現しているかのような世界では、時間が普通の世界よりも、はるかに遅く進んでいる。
それを考えると、
「誰かが殺されるのを分かっていれば、事前に止めることができる」
というものであった。
ただ、凍り付いている世界は、今の自分たちの世界と同じものなのかどうか、ハッキリと分からない。ただ、
「パラレルワールドの世界であれば、時間の進み方に差はない」
と思うのは、都合のいい考えであろうか。
前述のアインシュタインの提唱した、
「相対性理論」
であるが、
「高速で進んでいるものは、時間の進みが遅い」
という考えがある。
この場合は、時間の進みが早いから、同じ時間をスタートラインにした時、時間の進みが早いと止まったような空間が出来上がってしまうのだ。
つまり、
「凍り付いてしまった世界は、時間の進みが早いから、本当はゆっくりでしかない時間を空間と混乱させてしまっているのではないか?」
と考えられるのだ。
当たり前のことをいっているようなのだが、果たして、理屈として通っているのか、それは空間と時間というものが、切っても切り離せない世界であるということへの証明にも繋がっているのかも知れない。
それを考えると、ウラン精製に使う、遠心分離機などの発想も、時間と空間を一つにするものとして考えられるのではないかと思えるのだった。
中性子爆弾は、
「時間と空間を超越した世界を、今の世界とは別の次元として表しているのかも知れない」
と感じられた。
ただ、生物だけを殺傷し、建物だけを残すという考えは、これ以上恐ろしいものはない。
「ある意味、核兵器への罪悪感をマヒさせるためのものではないか?」
と言えるのではないか。
「建物は残し、残留放射能を少なくする」
という利点は、それまで、
「百害あって一利なし」
であった、核兵器に対して、一つの言い訳を示したことになる。
「核兵器を使用するということは、戦争を早く終わらせて、自国の軍人の命を一人でも救う」
という言い訳しか、今までにはなかった。
もちろん、こちらの方が、説得力はあるだろう。だが、考えてみれば、自分は死ぬのだから、後に何が残ろうが関係ないのだ。
「どんな言い訳をしようとも、殺戮兵器に対しての言葉は、言い訳でしかないのだ」
ということになるのだろう。
盗難事件
F大学の、湯浅研究室にて、研究途中の、
「難病治療薬に関する研究資料が、何者かに盗まれる」
という事件が発生した。
研究所は、それなりのセキュリティを催していた。
と言われているが、実際には、
「セキュリティは確かにしっかりはしていたのだが、窃盗グループの方がかなりのプロ出あった」
ということである。
窃盗を行う実行犯もプロ集団であり、セキュリティを骨抜きにするという科学的な開発もすごかった。
「やつらであれば、国家機密を保存している場所にも潜り込めるかも知れない」
と、言われるほどのものだったようだ。
やつらが盗み出したものは、もちろん、今国家プロジェクトで国から依頼されていた、
「難病克服のための、プロジェクト資料」
だった。
やつらの目的はどこにあるというのか? 窃盗グループはあくまでも手下であり、その裏に何が潜んでいるのか、ハッキリとしない。
しかし、ここで一つおかしなことがある。
「この事件をどうして、F大学は公表したのだろうか?」
ということである。
これは国家機密であり、こんなことが国民の耳に入ると、パニックになってしまう。ウワサであれば、ウワサだということを、言い続けなければいけないのではないだろうか?
国民にセキュリティの甘いこと、さらに国家機密が何者かに盗まれたということで、他人事ではないはずだ。
分かり切っているはずなのに、一体どうしたというのだろう?
ここのセキュリティは、確かに国家機密に関わることを保持しておけるだけのセキュリティではない。どこの会社にでもあるような、普通のセキュリティだった。
防犯カメラと、センサーが働いているだけ、赤外線装置だけはついていたが、これも簡単に突破されたようだった。
一度、湯浅教授に、研究員の一人が、
「教授、この程度の警備で、本当に大丈夫なんでしょうかね?」
と訊ねた時、教授は楽観的に、
「大丈夫、大丈夫。気にすることはないさ。そもそも、我々が何かを研究しているということを知っている人はいないはずなんだからね」
と、あくまでも、他人事に近かった。
しかし、研究が盗まれたことで、教授の責任は決定的になり、
「私は責任を取って、辞職をいたします」
といって、教授は大学を去っていったのである。
作品名:意識と記憶のボタンと少年 作家名:森本晃次