臭いのらせん階段
「そこまでは分かりませんが、この状況において、あなたが麻酔薬を嗅がされたということは大きな意味があるのですが、それも順を追ってお話ししましょう。まず、ここで私たち刑事がいるということは、お察しでしょうが、事件があって、それで我々は出頭してきています。人が殺されたんです。そのそばにあなたが倒れていたということなんですが、我々はあなたも殺されているのかと思いましたが、どうやら気絶しているだけだと分かりホッとしました。でも。ここでいくつかの疑問が出てきます。あなたが、気絶させられた理由ですが、普通に考えると、犯人にとって、何か都合の悪いものを見られた場合ですね。でも、もしそうだとすれば、生かしておくのもおかしな気がします。警察に喋られれば困るわけですからね。では、そうではないとすると、犯人がわざとあなたをここに放置したという考えですね。でも、これも少し無理があります。考えられることとすれば、あなたを犯人に仕立て上げるということであれば、分かるのですが、別にあなたが凶器を持っているわけでもないし、返り血を浴びているわけでもない。そうなると、考えられるのは、あなたがここにこの犯罪とは関係のない何か別の目的でやってきて、偶然死体を見てしまい、大きな声を挙げられるのが、まずくて、応急的手段として、気を失ってもらったということですね」
と刑事は言った。
少し考えてから、
「じゃあ、彼らの目的は、その時、死体が発見されては困るということだったんでしょうか? アリバイの問題とかあって、もっと後で発見される必要があったということですかね?」
と敏子がいうと、
「なかなかする語彙ですね。ここは、ずっと使われていないマンションの跡地で、今は買い手が見つかって。もうすぐここが建て替え計画に入るそうなんです。それまではあまり人が立ち寄らない場所なので、死体が見つかるまでには、結構時間はかかるんですが、確実に一か月もしないうちに誰かが見つけることになる。それを犯人は狙ったのかも知れないですね」
と桜井がいうと、
「でも、実際に警察の方が来られているということは、事件が発覚してしまったわけですよね。となると、刑事さんの推理は違っていたということになりませんか?」
という敏子に対して、
「ますます聡明なお嬢さんだ。そうなんですよ。一日はおろか、犯行から数時間で、事件が露呈することになった。では、誰かがここに来たということなのかというとそうではないんです。警察に通報があったということなんです。ここの跡地で人が死んでいるとね」
と刑事が言った。
「誰が掛けてきたんでしょう?」
と敏子が聞くと、
「ハッキリとは分かりませんが、その男の通報にてやってくると、本当に人が殺されていて、おまけにあなたが、気絶していたというわけです。聡明なあなたなら、私が考えていることが分かるかも知れませんね。はい、私は、掛けてきた人は犯人だと思うんです。そして本当は、もっと後で自然に発見されるべきものの計画が狂ってしまった……」
と桜井が言って、そこで言葉を止めると、
「犯人にとって計算外の出来事が起こったために、計画の変更を余儀なくされた。それが、私の登場だということを、刑事さんは言いたいんじゃないですか?」
と言われて、
「はい、ご名答です。そうでないと、通報してきた人の名前を通報を受けた人間が聞こうとすると、すぐに切ったりはしないでしょう。しかも、公衆電話からかけてきているなんて、ケイタイを持っていないわけでもないだろうに。それで、何か怪しい。この事件には裏があるような気がしたんです」
と、桜井刑事はそう言った。
「私もそれは感じますね。でも、ただ、どうして私がここに来たのかを思い出せないのは、なぜなのか少し気にはなるますね、何か麻酔薬を嗅がされたとこで、記憶が飛んでしまったんでしょうか?」
と、敏子は言ったが、
「いえ、それは考えにくいかも知れないですね。それよりも可能性としてですが、もっと精神的なことが影響しているのではないかと思うんです。つまり、あなたがひょっとすると犯行現場を見た。あるいは、犯人を見たなどというショッキングなことから、自分で自分の記憶に蓋をするということが往々にしてあるというのを、精神科の先生に伺ったことがあります。我々のように、犯罪捜査ばかりしていると、犯行現場を見たショックで、記憶をその瞬間だけ失ってしまったということはよくあるのを聞いたことがあります」
と言って、すぐに、桜井刑事は、
――待てよ?
と感じた。
さすがに今感じたことを本人には話すわけにはいかないが、感じたこととして、彼女が犯人を見たと仮定した場合、相手も彼女に見られたと思ったことで、彼女を殺しにかからないかということもある。しかし、もし顔を見られたとすれば、その場で彼女も一緒に殺してしまうことだってできるはずだ。それをしなかったのには、二つの理由が考えられる。「彼女をその場で殺してしまって、死体が二つになることを犯人が恐れたからなのか、それとも、彼女を一緒にその場にいさせるというのが目的の一つだったのだ」
という考え方である。
さすがに目の前にいて、何が起こったのか分からず、しかも、半分記憶を失っている女性に対し、
「あなたは殺されていたかも知れない」
などと言って、追い詰めるようなことをしてはいけないだろう。
彼女には、警官のガードをつけておく必要があるのだが、刑事も貼りついていなければならないだろう。何と言っても、彼女は気を失っていたとはいえ、犯行現場にいたのだから、疑われても仕方のない立場。彼女としても、自分が疑われることくらいは、分かっているだろうと思えた。
さて、そんな状況なので、あまり彼女を追い詰めることはできない。しかし、記憶を失っているとい状態で、見た目は勝気な女性であれば、自分の身に何が起こって、これからどのような危険があるのかということを知りたいと思っているに違いない。少なくとも、「不安は解消してあげなければいけない」
と桜井は思った。
「ねえ、桜井さん。死体は誰だったんですか?」
と聞かれた桜井は、一瞬どうしようかと迷ったが、彼女の知っている相手であれば、知る権利はあるだろう。
というよりも、彼女の口から被害者のことをいずれは聞かなければいけないのだし、不安を解消させる意味でも教えるべきだと思った。
被害者のプライバシーというのもあるのかも知れないが、事件関係者という意味では、彼女に知ってもらう必要があると感じた。
「被害者ですが、ポケットに運転免許証があったんですが、被害者の名前は、山岸幸太郎という名前です。年齢は五十三歳ということでした」
と教えてくれた。
「山岸さんですか?」
と、あからさまに大きな声で聴いた敏子だったが、それだけショックが大きかったということだろう。
ここまで冷静に話をしてきた彼女が急に声を立てるのだから、これは顔見知りでしかないだろうと思ったのだ。
「お知り合いですか?」
と聞かれて、