中途半端な作品
実際に、誰か人と比べる何かがハッキリしていないことが、逆に魅力だったのかも知れない。何かにかぶせるかのように見てしまうことは、自分にないものを求めようとする、
「ないものねだり」
なのかも知れない。
それを思うと、自分にないものを人がたくさん持っているということに気づき、自虐的になってしまう。だから、自分にないものを持っている人に対して、敬意を表しているつもりで、自分も持っていると思いたいのだろう。
だが、自分にもあるものを他の人が持っていても、何も感じないということが多かったりする。好きな人に対してなら特にそうかも知れない。だが、同じものを持っている人の方が話も合うだろうし、何よりも相手の気持ちがよく分かり、お互いに気を遣い合うことができる。
しかも、その気の遣い方も、相手に知られることなくさりげなくできるとなると、親街に変な気を遣うことがない分、
「気遣いの応酬」
なる、茶番を起こすことはない、
昭和のおばさんのコントなどで、よく見かける無意味なレジ前での譲り合い。
「奥様、今日は私がお支払いいたしますわ」
「いいえ、奥様、今日こそはわたくしがお支払いさせていただきます」
などという、会話を、レストランなどで食事をした後で、我先にと、自分が会計を払おうとする。
後ろには他の客が待っているのに、お構いなしだ、つまりは、自分がレジを仕切ることで、今でいうマウントを取りたいだけなのだ。形は変わっても、
「マウントを取りたい」
という気持ちに変わりはない。
そんな会話を永遠としているのは、コントでしかないと言ってもいいだろう。
同じ昭和でも、大学生にはそんなことはない。そんな大人たちの見苦しい、マウントの奪い合いを見たことがあるからなのか、それとも、コントで知っているからなのか分からないが、大学生が見ると、百パーセントに限りなく近い確率で、そんな、
気遣いの応酬」
と見たくもないだろう。
石松さんという女性との間に、そんな気遣いは存在しないだろうと覆った。もし、笠原がお金を払うとしても、石松さんなら、一度くらいは、
「自分の分は自分で」
というかも知れないが、それは自分の考え方を示すという意味で、逆に必要なことであろう。
だが、すぐに、
「じゃあ、次回は私が」
と言って、その場を丸く収めてくれるに違いない。
これが、笠原にとっての気の遣い方であり、寸分違わぬ態度を、石松さんであれば、してくれると思っているのだ。
少しくらいは違っても、それは愛嬌として片づけられる。それが誤差の範囲と言えるものではないだろうか。
誤差の範囲が愛嬌に変わるのだから、
「あばたもえくぼ」
ということで、その感情が、好きだという感情なのではないかと気付いたのは、しばらくしてからだった。
サークルの先輩には、完全に一目惚れだったのに、石松さんには一目惚れではなく、徐々に好きになって行ったという雰囲気が形成されていったのだ。
時間が掛かるほど、そこまdの道のりが長かったのだと分かるのだが、自分の感情が恋愛感情だと自覚してから、知り合った時のことを思い出すと。
「まるで昨日のことのようだ」
と思う。
ということは、
「知り合った時から、本当は大好きだったんじゃないか?」
と、気付いたのが今だというだけで、本当はずっと好きだったのだということに気づかなかっただけで、それだけ、好きだという感情の出発点を自分なりに探していたのかも知れない。
それは見つからなかったわけではなく、分かっているのに、気付かなかった。それは、自分の顔を見るのに、鏡のような媒体がなければ見れないという、身近なものこそ距離を遠くに感じるという、そんな感じなのではないだろうか。
「断崖絶壁のところに吊り橋が掛かっている。そこをこわごわ歩いていると、今にも落ちそうで恐ろしいのだが、下を見ることもなく、まっすぐに前を見て歩いていけば、次第に怖さも薄れて、気が付いたら渡れるようになる」
などという気休めを言っている人がいたが、実際にはそんなことはない。歩いているうちに恐怖がこみあげてきて、こみあげてきた恐怖は消えることはなく、徐々に増してくるものだ。
それは、恐怖の根本である吊り橋を渡るという行為をやめない限り、無理なことである。それでも進もうとするのであれば、
「堕ちて死んでしまってもいいんだ」
というだけの覚悟を持たなければいけないだろう。
だが、そんな覚悟誰が持てるというのか、バラエティ番組などで、芸人さんは怖がりながらではあるが、キチンと演じている。もちろん、恐怖がないなどという人間はいないだろう。もっとも恐怖がなければ、その時点で人間ではないのだが。
「克服することが、強くなる秘訣だ」
とでもいうのだろうか。
笠原は、その頃から急に出てきた芸人へに無理強いを演出する番組構成。さらにそれを見て笑っている視聴者。何が楽しいというのだろう。
「日本人って、集団でサディストなのか?」
と思うほどである。
それとも、何か仕掛けがあって、絶対に大丈夫なようになっているいわゆる「やらせ」というものなのだろうか?
そんなことを考えていると、やらせであったとしても、それはそれで大きな問題。逆にやらせなしであれば、今でいうパワハラの象徴のようなものではないだろうか。
まさか、番組内で、
「スタッフの指示により、命に危険が迫ったり、実際に命を落としたとしても、決して訴えたり、恨んだりしません」
などという誓約書にサインでもさせられているというのか。
今の時代のように、これだけコンプライアンスを叫ばれている中で、このような堂々としたハラスメントが行われているなど、考えただけでも恐ろしい。
しかも、もしこれがやらせであれば、これも大きな問題だ。
「放送倫理を著しく妨げた」
というべき内容では、完全な放送事故である。
それなのに、バラエティなどで行われる罰ゲームや無理強いは、どうしてなくならないのか? と思うのは、決して笠原だけではあるまい。
そんなことを考えていると、ちょうど、石松さんと、また授業で一緒になった。
「この間はどうも」
と声を掛けると、
「今日はテキスト忘れていませんか?」
と皮肉を言われたと思ったので、
「いいえ、大丈夫。持ってきていますよ」
というと、
「なあんだ。私がまた見せてあげようと思ったのに」
と、言って、ニッコリ笑った。
明らかに彼女のあざとさに感じられたが、会話があったのはそこまでで、また彼女は黙り込んでしまった。すぐに授業が始まったので、授業の間。
「授業が終わったら、今回は絶対に食事にでも誘おう」
と思ったのだ。
そんなことを考えていたので、授業の終わるまで、なかなか時間が過ぎてくれない。九十分の授業で、最初の五十分くらいは、倍くらいの遅さに感じ、そこから十分前までは普段と変わらない時間、そして最後の十分はあっという間だった。
それを思うと、
「さっき考えていた、つり橋の上での時間配分も、今感じtくらいの配分で分ければ、何とかなったかも知れない」
と感じた。