中途半端な作品
ただ、その時、夢を見ることができたから、文芸サークルに入ろうと思ったのだし、もしそうでなければ、大学の授業の中で、論文を書かなければならなくなった時、
「文章というのは、人から命令されて書くものなんだ」
という意識が懲り固まってしまい、トラウマになってしまうかも知れない。
そうなると、その後の人生はその時点でまったく変わってしまったと言っても、過言ではないだろう。
文芸サークルに入ったのは、まだ暑くなる前で、雨が降り始める前だったので、五月くらいだっただろうか。
そういえば、五月頭のゴールデンウイークがまだ頭の中に残っていた時期だったので、余計にそう感じる。
高校時代までは、
「学校に行かなくてもいいんだ」
という感覚だったのに、大学に入学すると、逆に、
「友達に会えないのは嫌だな」
と真逆に感じるようになっていた。
まだ、入学式から間もなかったので、新入生という意識が強かった時期でもあった。
入部してから少ししての、一般教養の授業の時、ちょうど、テキストを忘れてきてしまっていた。その時、ちょうど横に女の子が座っていたので、思わず小声で、
「すみません。テキスト忘れてきたので、一緒に見せてくれませんか?」
というと、その子はニッコリと笑って、
「いいですよ」
と言って、すっと、机の上を滑らせるようにして見せてくれた。
「ありがとうございます」
という苦笑いを浮かべると、彼女は急に噴き出したかのように笑い出した。
もちろん、教授に聞こえないような静かな声だったので、誰の邪魔にはならなかったが、その声を聴いた時、まるで天使の笑みに見えたのだった。
雰囲気は物静かそうで、顔の表情にはまだあどけなさが残っていて、
「俺にまで微笑んでくれるなんて、素敵な女性だ」
と思ったのだ。
それまで女性と付き合ったことはおろか、会話をすることすらたまにしかないのに、そんな笠原は、彼女のことを好きになっていることに気づいた。
そう思った時、浮かんできたのが、サークルで気になっていた先輩の女性だった。
先輩は、いつもニコニコ、ニコニコした表情しか思い浮かんだりしない。その顔に冷静な表情は思いつくことはなく、
「まるで笑いながら生まれてきたのではないかと思うほどだ」
と感じたのだった。
もちろん、笑いながら生まれてきたわけもないし、泣いたことが一度もないということもありえないだろう。
だが、彼女の泣いた顔や怒った顔を見たことのある人は稀であろう。
「ひょっとすると、彼女は自分でも怒ったり泣いたりしている自分を想像できたことはないのかも知れない」
と感じるほどだった。
最初に一目惚れして入部までした先輩と、ジワジワとした自分の感情に気づいてきたその女の子に対しての自分。どっちも本当の自分であり、本当の自分ではないのかも知れない。
テキストを見せてくれている女の子が気になって、講義をまともに聞くことができなかった。ただ、そのおかげというべきか、時間はあっという間だったので、講義の時間が苦痛ではなかった。
眠くなったのも事実だった。ただでさえ五月晴れのポカポカ陽気、換気もしてあるので、いい風が吹いてくる。彼女の長い髪が風になびいているのを見ているだけで、さらに睡魔に襲われるのだった。何回か襲ってくる睡魔にギリギリ落ち込まずに済んだという感覚を繰り返しているうちに抗議が終わった。その時、まるで夢から覚めた感覚があったので、ひょっとすると、本当は眠っていたのかも知れない。
その時は、まだ自分が彼女のことを好きになるとは思ってもいなかった。初めて好きになった女性が先輩だったので、自分はすぐに一目惚れするタイプだと思っていたのだ。
ただ、それは、
「自分の手に届かないかもしれない」
と感じる相手であり、先輩だという意識も強く、最初からあきらめていたのかも知れないと感じる先輩だったが、彼女には、
「すぐそばにいても、何も違和感がない。ひょっとすると自分のそばにいつもいるのは彼女かも知れない」
と感じていたのだ。
講義が終わってから、
「僕、法学部一年の笠原と言います。今日はありがとうございました」
と言って自己紹介すると、彼女の方も、
「私は文学部一年の石松と言います。よろしくね」
と言ってくれた。
当時は今のようにケイタイやスマホなどというものがあるわけでもなく、メールやラインのIDが聴けるわけではないので、名前をいうだけだった、
さらに、当時は、個人情報保護などという観点もなければ、ストーカーなどというものもなかったので、比較的オープンな時代だったとも言えよう。
彼女が次の講義に移動する後ろ姿を見て、どちらかといえば、その幼児体型に、ドキッとしてしまった笠原は、先輩との違いが分かった気がした。
「先輩は、大人の魅力があるにも関わらず、活発な感じがするんだけど、石松さんは、幼さが残っていながら、落ち着いた佇まいを感じさせ、却って大人の魅力を感じる」
と思っていたのだ。
そんな石松さんの後ろ姿を目で追いながら、
「ひょっとして、好きになるってこういう感覚なのかな?」
と感じ、先輩に対して抱いた思いが何だったのかを思うのだった。
それはすぐに思い浮かんだ。
先輩を最初に見た時、ドキッとしたのと同時に、身体が反応した。それは男としての反応で、生理的なものだった。
中学時代の思春期の入り口で、特撮番組などのヒロインのお姉さんを見て、ドキドキしていたあの時の感覚を思い出した。
実際に、あのお姉さんの存在がなければ、中学生になってまで、特撮ヒーローものの番組など見ることはないだろう。
当時はまだ特撮ヒーローものが今に続くほどの長寿になろうとは思ってもいなかったので、自分が特撮ヒロインのお姉さんに憧れたのが、他の人にはない自分だけの異常性格なんだと思ったほどであった。
だが、今まで続いていて、比較的中学高校生にも視聴者が多いということを聞くと、やはりあれは自分が異常性癖ではなく、皆そうだったのではないかと思った。
いや、異常性癖は異常性癖だったのだろうが、皆が皆異常だったというだけのことではないのだろうか。
そんなことを考えていると、サークルの先輩に感じた感情は、
「特撮ヒロインのお姉さんに感じたのと同じ思いではないか?」
と思うと、急に手が届かない世界にいる相手だということを意識してしまい、これを恋愛感情と結びつけるというのは、何かが違うと思うようになった。
先輩に活発さを感じたのは、特撮ヒロインのあの活躍を見ているからだ。しかも、髪型がいかにも特撮ヒロインという感じであったのも、頷ける。
ただ、特撮ヒロインの髪型は、時々ショートカットで、それほど活発な感じではないお姉さんもいて、そんなおねえさんにも異常性癖を感じるのだから、自分でも、どこが好きなのか分からなくなっていた。
今回知り合った石松さんは、どの方向から見ても特撮ヒロインに感じるものは何もないので、自分が何を彼女に感じたのか、ハッキリと分からないでいた。