中途半端な作品
大学時代の、一、二年の頃の感覚も覚えているが、むしろ、三年生以降の方が意識としては強かっただろう。
三年生で勉強が追い詰められた時の記憶が実際に残っていて、そのせいか、今でも卒業できないという夢を見て、ビックリして目を覚ますことがある。
大学は八年間しか行けず、八年で卒業できなければ、退学と同等となり、中退となってしまうだろう。
そんなことは分かっていたが、何とか四年で卒業しないと、学費の問題もあった。頑張って卒業するために勉強も必死にやったが、それと並行してのサークル活動は、結構楽しかった気がする。
三年生になると。今度は卒業が見えてきた連中は、大学にあまり来なくなる。アルバイトを真剣にやったり、ここから真剣に遊びをやろうという人が多かった。
「俺がやり方を間違えたのか?」
と思わせるほどだったが、大学入学の際に思っていたことをすっかり忘れてしまったのがそもそもの間違いだったのだろう。
「大学に入ったら、人に惑わされることなく、勉強しよう」
と思っていたはずだった。
何よりも、
「人に惑わされず」
というところが大切だったのに、完全に惑わされてしまった。
人まねの怖さを思い知ったとでもいおうか、人と同じことをしていても、心構えが違えば、自分だけが置いて行かれるのである。そのことをまったく意識していなかったのが、自分の敗因だと感じた。
ただ、時すでに遅く。勉強を余儀なくされたことは、自分を極度に情けないと思わせるという自虐に走ってしまう。もし、サークル活動に活路を見出すことがなければ、勉強をする気力もうせてしまっていて、最悪、
「八年で卒業できるだろうか?」
という考えてはいけない思うに至っていたかも知れない。
その思いが、今になって夢に出てくる。あの感覚だった。
「本当に四年で卒業できるのだろうか?」
この思いは大きかったのだ。
夢というのは、結構大げさだったりする。それだけトラウマが残っているからなのだろうが、すでに夢の中であっても、卒業しているという意識があるのに、自分の中で、
「来週から試験だということを忘れていた」
と、いうことが頭をよぎると、その瞬間、まだ学生だという意識の舞台が夢の中で出来上がってしまうのだ。
そう思うと、テストがあるにも関わらず、勉強しようにも資料がない。今からであれば、ほとんどの教科のノートを入手するのは困難だ。今から言って、手配させてくれるような友達もいない。なぜなら、皆単位を取得しているので、すでに授業に出ていないからだ。
四面楚歌に陥ってしまい、気が付けば何もできないまま試験期間は終わってしまっている。そんな状態でやっと目が覚めるのだった。
身体から汗が噴き出しているのが分かる、目が覚めた瞬間、
「よかった」
と思う。
明らかに学生時代の夢で、自分が卒業できなかったという結末を描いていたことを感じた。
「夢が途中で終わったわけではなく、最後まで見ているはずなのに、最後まで見たという意識を自分に残したくない一心で、忘れることに全神経を集中させているのだろう」
と思うのだった。
だが実際には、キチンと四年で卒業できた。しかも、三年生でだいぶ単位を取ることはできたが、さすがに、四年生でもかなり厳しいだけの単位を残してしまった。
就職活動をしながら、学校の授業も受けなければいけないというのも結構きつかった。しかも頭の中で、
「もし、内定が貰えたとしても、卒業できなければ、内定も取り消しになって、来年さらに就職活動をする時、不利になったりはしないだろうか?」
ということが頭に残ってしまい、就職活動も卒業に向けての勉強も、どちらも中途半端になっているのではないかと思うのだった。
そんな三年生、四年生を過ごしたのだったが、意外と充実していたような気がした。ただ。まわりに置いて行かれている感覚はハンパではなく、結構きつかった。
「二年生の時に、人に惑わされずに勉強していれば」
と思ったが、後の祭りだった。
無事に卒業できて、就職活動もうまくいったが、何が正解だったのか、今でも分かっていない。
大学生活というのは、誰が見ても、楽しいものだということを否定するつもりはないが、やはり大学に行っただけの何かを自分で理由づけできなければ、ダメだと宇と思った。
大学生活において、少しでも後悔があったとすれば、その後悔はなるべくその後の人生に引きずることがなければ、それに越したことはない。
夢を見てしまうというのは、まだ引きずっている証拠なのだろうか?
笠原は、卒業できたことで自信もついたような気がする。就職した会社は出版会社で、文芸部に所属していたことで、本関係に携われる仕事ということで、出版社を狙い撃ちで就職活動に勤しんだ。
当然自分の成績で、有名出版社などありえるわけはないが、何とか、地元の情報発信の出版社に入社することとなった。
ちょうど、その頃から地元のいろいろな情報を発信するという雑誌が全国でも流行り始めた頃だった。ガイドブックと、今でいう食べログのようなものが一緒になったような雑誌で、当時としては画期的だった。
まだネットどころか、パソコン自体がほとんど普及していない時代、活字になった本が主流だったのは間違いない。綺麗な写真と一緒に紹介される記事は、月刊誌であるが、結構な売り上げだっただろう。
そのちょっと後くらいからであろうか、夕方の番組が地元情報やニュースをお届けするという番組が流行り出した。昭和であれば、
「地元を強調するのは、それだけ田舎な証拠だ」
と言われていたのだろうが、次第に地元産業の復興であったり、Uターン就職などという言葉で、地元企業に、都会から帰った優秀な人材を獲得できるようにしようとする努力が勧められていた。
そんな地元中心のあっせん番組が、二十代から三十代前半は嫌いだった。
「まるで自分たちを田舎者だと自虐しているようで、嫌だ」
と考えていたからだ。
だが、地元の出版社に入ればそんなことはいっていられない。就職できただけでもよかったのだから、文句を言ってはいられない。
徐々に高まる恋愛感情
話は、大学一年生の頃にさかのぼる。
あれは、自分が文芸サークルに入部してからすくくらいのことだっただろうか。女性が気になって、それで入部したという、少し不純な動機での入部であったが、入ってみると、結構楽しかった。
何しろ、何かを作り出すことが好きだったのだから、機関誌に自分の作品を載せるということがどれだけ楽しいかということを感じることができたのだ。
人の作品を、まるで自分の作品であるかのように想像して見てみたが、人の作品でも自分のだと思うと、楽しいだろうということは伝わってくる。
ただ、こんな思いをなぜこの時にできたのかということは不思議だった。
「自分の作品は自分のものであり。決して人の作品と比較などできるわけはない」
と思っているにも関わらず、なぜそんな感覚になれるのか、普通なら理解できないはずだった。
だから、それまでとそれからではそんな考えに至ることなどありえなかった。